“5月10日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1863=文久3年 長州藩が下関沖に停泊していたアメリカの商船ペンブローク号を砲撃した。
この日は幕府が諸藩に通告した「攘夷開始」の日限にあたる。各藩は静観や無視を決め込んだが長州藩では帰藩した久坂玄瑞を迎え攘夷過激派が勢いづいていた。藩主で馬関(下関)総奉行・毛利元周は、各台場の砲台へは非武装船には砲撃しないようわざわざ使者を出して戒めていたが過激派の一部が藩の軍艦庚申丸に乗り込み、商船をいきなり砲撃した。別の軍艦や砲台もこれに呼応したがペンブローク号は辛くも豊後水道に逃れた。非武装であれ何であれ、長州藩の士気は大いに上がり、余勢を駆って23日にはフランス艦キャンシャン号、26日にはオランダ軍艦メデュ―サ号にも砲撃を加えた。
砲撃された側も黙ってはいなかった。ペンブローク号がその後入港した上海から公式報告が届くと横浜駐在の米国公使が幕府の役人を呼び出し厳重に抗議する。「幕府側で処理するので本国には報告しないでほしい」とあくまで穏便処理を頼みこんだ役人が戻ると同席していた軍艦ワイオミングの艦長に報復・懲罰として下関攻撃を命じた。6月に行われた攻撃にはワイオミングの他にフランス艦2隻も参加、長州藩は蒸気艦2隻を失い、1隻も大破した。上陸した陸戦隊により砲台を大破され民家を焼かれたことで面目丸つぶれとなった。ワイオミングは5名が死亡するなど人的・物的被害も大きかったものの通商友好条約を巡って日本を攻撃した最初の外国軍艦となった。
これが下関事件で別名・馬関事件とも呼ばれるが、懲りない長州藩はさらに独自軍備を整えて<海峡封鎖>を続けていくわけです。
*1909=明治42年 作家でロシア文学者の二葉亭四迷が帰国中の客船の船室で死去した。
朝日新聞特派員として出かけたロシア・ペテルブルグから帰国する途上で、乗っていた「賀茂丸」がシンガポール沖のベンガル湾を航行中に肺結核に肺炎を併発した。45歳だった。
本名は長谷川辰之助で筆名は文学を理解しない父親から「そんなことをやるやつはくたばってしまえ」となじられたからというのは<大いなる俗説>のたぐいだろうが自嘲をもじったともいわれる。森鴎外は「浮雲二葉亭四迷作という八字は珍しい矛盾、稀なるアナクロニスム(時代錯誤)として、永遠に文藝史上に残して置くべきものであろう」と評した。
近代文学の先駆者で言文一致体の創始者として知られ、生涯に創作は小説『浮雲』『其面影』と未完に終わった『平凡』の3作しか残さなかったが、ツルゲーネフやチェーホフなどロシア文学の翻訳を多く手掛けた。なかでもツルゲーネフの『あひゞき』『めぐりあひ』は自然主義作家らに大きな影響を与えた。
『浮雲』は最初に書いただけに拙い出来だと自分を卑下した四迷が師の坪内逍遥に頼みこんで第一編と第二編は逍遥の本名・坪内雄蔵作として発表した。それが評判になったので自信を持ち1889=明治22年7月に『都の花』に発表した第三編ははじめて二葉亭四迷作で掲載された。四迷26歳、大人の調髪料金が5銭だった当時、原稿料は80円と破格だった。
ロシアでは白夜で不眠症に悩みながら鴎外の『舞姫』のロシア語訳などを手がけた。発病のきっかけになったのは取材で参列したウラジミール大公の葬儀で、雪のなかに長時間立っていたのが災いしたとされる。死を予感してか坪内逍遥あてに妻、祖母への遺言状を託していた。横浜港ではシンガポールで火葬にされた遺骨を逍遥や鷗外ら多くが迎えた。
*1869年 アメリカ大陸を横断するユニオン、セントラルの両鉄道がつながった。
東からはネブラスカ州のオマハを起点に国策会社のユニオン・パシフィック鉄道が中西部の大平原を西に線路を伸ばした。平地のため建設は順調に進んだがインディアン居住地では土地を没収された彼らとの間で多くの揉め事や襲撃事件に見舞われた。建設労働者にはアイルランド人移民や南北戦争の退役軍人、モルモン教徒が多かった。一方の西海岸からは同じく国策会社のセントラル・パシフィック鉄道がカリフォルニア州のサクラメントから建設を始めた。当初の工事は順調だったがトンネルが続くシエラネバダ山脈にぶつかると難航した。中国系移民が建設労働者として大量に採用されたが、トンネル現場での爆薬事故や落石、冬季の雪崩などで多くの命が失われた。
着工から6年後、開通記念式典はユタ準州のプロモントリーサミットで行われた。アメリカ中のマスコミが集められ、カリフォルニア州知事でセントラル・パシフィック鉄道社長のリーランド・スタンフォードが開通を象徴する黄金の「犬釘=ゴールデン・スパイク」をハンマーで打ちこんだ。のちにスタンフォード大学を創立することでも知られる。ニューヨークでは祝砲が撃たれ、フィラデルフィアでは自由の鐘が打ち鳴らされてアメリカ中が歓喜した。
大陸横断鉄道の開通で東海岸と西海岸はまだパナマ運河がなかった当時、パナマ地峡経由で数週間かかっていたのが1週間に短縮された。1876年には大陸横断超特急が83時間39分の新記録を出したがそれでも丸3日半かかったことになる。