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“5月18日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1936=昭和11年  東京・尾久の待合・満佐喜で男の死体が見つかった。

ここまでなら<よくある事件>だったが、下腹部、つまり局所が切り取られ、首には腰紐が巻かれていた。さらに左腕には「定」太腿に「定吉二人」の字が刃物で刻まれ、敷布に「定吉二人きり」と大きな血文字があった。これで一気に<猟奇事件>に発展する。

男は中野区新井町で割烹料理店を経営する42歳の石田吉蔵、逃げた女はここの元女中で31歳の阿部定と判明した。定は10代から芸妓や女中など職を転々とし前年2月に石田の店に住み込むがやがて関係ができた。これを家人に知られると4月末にふたりで愛の逃避行、この待合には1週間も居続けていた。

「2.26事件」がようやく終息はしたものの実行犯らへの判決はまだ下りていないこの時期、時局柄この種の犯罪報道には当局の規制が入るところだったがそれがまったくなかったたま新聞各紙は「謎の血文字」、「妖艶夜会髷の年増美人」など派手な見出しで紙面の大半を使って事件を書き立てた。いわばこの猟奇殺人が庶民の<ガス抜き>になったわけだ。

2日後、定は品川駅前の旅館・品川館に「大阪市南区南園町209 無職 大和田直 37歳」の偽名で宿泊しているところを一斉捜索中の高輪署員に職務質問され、本人であることをあっさり認めた。新聞には「妖婦お定 遂に就縛」「品川駅前の旅館に高飛びもせず潜伏」「大和田直と偽名した猟奇殺人女主人公」「添われる仲でなし 寝顔見つつ殺害」「愛するが故にと自白」などの見出しが躍った。

持っていた風呂敷包には犯行に使った肉切り包丁と石田のメリヤスシャツ、切り取った下腹部を入れた紙包みがあったことで犯人と断定された。記事には「品川館から引かれ行く際にはさすがは女、最後の身だしなみとして上野広小路の古着屋小野方と新橋の古着屋あづま屋方で買った鶉模様のお召しに纐纈織の名古屋帯をしめ、やつれ果てた頬にニヤリと笑いさえ浮かべてゐた」とやたら詳しいから服装について警察発表があったのか。

身柄は高輪署から捜査本部の置かれた尾久署、さらに深夜になって警視庁に移送された。定は取り調べの刑事の「なぜ石田の局所を切り取って持ち出したのか」という質問に「それは一番可愛い大事なものだからそのままにしておけば湯灌の際にお内儀さん(石田の妻)が触るに違いないから誰にも触らせたくないと。どうせ死骸はそこに置いて逃げなければなりませぬから石田のオチンチン(ママ)があれば石田と一緒のような気がして淋しくないと思ったからです」と自供した。

判決は懲役6年。刑期を終えると作家の坂口安吾と対談し、ドサ回りの役者やホテルの仲居などを経て東京の下町で小料理屋をはじめたがその後の消息はわからずじまい。

*1869=明治2年  箱館・五稜郭に立てこもった旧幕府海軍副総裁の榎本武揚らが降伏した。

前年10月26日に五稜郭へ無血入城した旧幕府軍は12月15日には箱館政権を樹立して榎本が総裁に就任した。しかし4月に新政府軍が北海道に上陸、松前、木古内、二股口などでの激戦を経て箱館総攻撃となり旧幕府軍が立てこもった五稜郭を囲んだ。7日目のこの日、榎本ら幹部は亀田の屯所へ出頭し、郭内の約千人も投降した。「箱館戦争」、「五稜郭の戦い」といわれ、これで「鳥羽・伏見の戦い」から1年半に及んだ戊辰戦争はようやく終った。

*1901=明治34年  東京音楽学校で新作唱歌の懸賞発表会が行われ『箱根八里』が発表された。

音楽通論と国語教授・鳥井忱(まこと)の詞に教え子で21歳の瀧廉太郎が曲を付けて応募した。ご存じ「箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず」から始まるこの歌は「第1章 昔の箱根」と「第2章 今の箱根」の2章構成だが、今さらながら相当に難しい。最初の「かんこくかん」くらいは覚えておられる方が多いだろうが「千仞の谷=せんじんのたに」、「羊腸の小径=ようちょうのしょうけい」、「一夫関に当たるや万夫も開くなし」は「いっぷかん、ばんぷ」は読めても意味がわからない。調べたら「一人が関所を守れば万人をもってしても通れないきわめて険しく守りの堅いことのたとえ」だそうで、さすが漢籍に詳しい国語の教授だけのことはあります。

この発表会ではもうひとつ瀧廉太郎の原曲に土井晩翠が詞をつけた『荒城月』が歌われ、多くの人に感動を与えたと伝わる。『荒城の月』となったのは1918=大正7年にセノオ音楽出版社から独唱曲として出版されてからである。

ところでその舞台となった城址は、となるとこれが諸説あり。土井は仙台出身だから青葉城址、瀧は大分県竹田市の岡城址で曲の構想を練ったとされるから双方譲らず。他にも福島県会津若松市の鶴ヶ城址や岩手県二戸市の九戸城址、富山市の富山城址などにもそれぞれ由緒や歌碑などがある。いずれにも叱られるかもしれないが、どこにも合いそうな曲想だからそれもいいのではないかと。

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