“5月22日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1333=元弘3年 鎌倉幕府が滅亡した。
<1192=いい国作る鎌倉で>が<1333=一味さんざん幕府滅亡>ということに変わったのはいったい何があったのかと考えましたね。いや、考えないでただ覚えただけだったか。
鎌倉をめぐる攻防戦は5昼夜にわたる激戦だった。新田義貞率いる数万の軍勢は18日に極楽寺口、巨福呂口、化粧坂口の三方から総攻撃をかけたが堅固な地形と御家人たちの勇猛な働きでこの攻略軍をまったく寄せ付けなかった。
その後も持ちこたえたが前日の21日はちょうど大潮にあたり、一部の軍勢が夜半に西の稲村ケ崎の浅瀬を渡って一気に鎌倉の府内に突入した。奇襲に続いて建物には次々に火が放たれ、政庁などにも迫るなか幕府軍の総崩れが始まった。東の山際にある東勝寺に陣を張った執権・北条高時は、一族の武将たちと最後の盃を交わすと自刃して果てた。あとに続いたのは一族郎党847人、都全体では6千人余が自決したと『太平記』は伝える。高時が死んだ場所とされる「腹切やぐら」はいまも多くの卒塔婆があげられ花や供物が絶えない「武士(もののふ)たちの浄土」である。
高時に仕えた武士で、その乱行をいさめたが聞き入れられなかったため出家し、高野山にいた工藤新左衛門はただの野原となった都にたたずんで
「ふるさとの昔を見ずば元よりの、草の原とは思いなさまし」
と詠って去った。
高時を大乱の元凶になった<暗君>と際立たせるための役回りだが生没年不詳、それ以前も含め150年の繁栄が高時のせいで終わったというより、彼もまた時代の犠牲者ではなかったか。
*1859年 <名探偵シャーロック・ホームズ>でおなじみのコナン・ドイルが誕生した。
イギリス・スコットランドのエディンバラで生まれた。エディンバラ大学で医学を学びながらアルバイトで外科医師の助手として働いていた当時、古典文学やエドガー・アラン・ポーの作品を愛読していた。卒業後は捕鯨船やアフリカ航路貨物船の船医をしたあとポーツマスで眼科医院を開業したがさっぱり振るわず、ヒマにまかせて小説を書いたがこちらも相手にされなかった。1887年に書いた初のシャーロック・ホームズシリーズの『緋色の研究』がようやく出版されることになったが売れなかったのであきらめかけていたところ、アメリカの出版社から出した2作目の『四つの署名』が爆発的な人気となった。
愛読者だった中学時代「人生という無色の糸カセには殺人という緋色の糸がまじりこんでいる」という『緋色の研究』を読んでどんな色なのだろうと。「その色が火を連想させるのでそう呼ぶ、英語ではスカーレット」とあったので『A Study In Scarlet』の原題なら「スカーレットの研究」のほうがいいのにと生意気に思った。別の作品で「道の両脇にはどこまでもヒースの荒地が続いていた」の描写では「ヒース」はどんな植物かと辞書を引いたら荒れ地の地形そのものだと知り、ホームズの探偵事務所の「ベーカー街221B」がどのあたりにあるのかわざわざ図書館でロンドン市街図を調べたあのころが妙になつかしい。
エドガー・アラン・ポーと並んで<現代の推理小説の生みの親>とされるコナン・ドイル、いや正式にはサー・アーサー・コナン・ドイルが暇にまかせてポーの作品を愛読していたというのも面白い。
*1885年 文豪ヴィクトル・ユゴーが最も簡潔な遺言を残し83歳でパリに死す。
『レ・ミゼラブル』『ノートルダム・ド・パリ』などの小説をはじめ膨大な詩作を残した。知らせを聞いた群衆は雷と雹の嵐をいとわず続々と邸に詰めかけてその死を悼んだ。
遺書は「私は5万フランを貧しい人々に与える。私は神を信じる」とだけあった。
*1811=文化8年 江戸時代に再開された朝鮮通信使は12回目の接遇を対馬で行ったのが最後に。
数百人にのぼる通信使の一行を江戸まで送迎することは幕府や沿道の諸藩にとっても莫大な出費となるため<玄関口>でお引き取りいただいたわけである。第11代将軍家斉の時代、寛政の改革で幕府財政の立て直しが断行された時代でもあったので<緊縮財政のあおり>といえなくもない。
御旗本 次第にしまるへぼ将棋 みな歩ばかりで金銀はなし
などという落首が書かれた時代だから無理もなかった。
両国は一応、再興のための交渉に努めはしたが、なにやかやと延期を重ねるうちに幕府自体が崩壊してしまった。