“5月25日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1930=昭和5年 深夜、上野の西郷さんの銅像の「犬」を盗もうとした男が警察に捕まった。
動機は生活苦から。それにしてもあの有名な銅像の一部を持ち去ってどこに売ろうとしていたのか。犬といっても相当に重いだろうし、すぐそばに持ち主の西郷さんが立っているのに!は冗談にしても人目に付く場所での<大胆すぎる犯行>ではないか。失業者が街にあふれた時代、前月にはわかっただけで41人を殺害した養育金目当ての「板橋もらい子殺し」が発覚して世間を震え上がらせたし、貧民街ではその日暮らしもままならない人ばかりだった。
ところで銅像は高村光雲作と知っていたが、犬は別人の作だとは知らなかった。光雲に木彫を学んだ後藤貞行の作品。西郷さんの愛犬・雌犬の「ツン」が死んでいたため別の雄犬をモデルにした。西郷の名誉回復として宮内省から500円の下賜を受け全国2万5千人の篤志で1898=明治31年12月に完成した。
鹿児島市にある西郷隆盛像(昭和12年)が陸軍大将の正装であるのに対し、一時は<朝敵>とされた西郷に明治政府の官位通りの正装をさせるわけにはいかなかったという時代背景がある。ついでながらこれは犬連れで散歩をしているのではなく、「ウサギ狩り」に出かけるところ、腰にはさんでいるのは「兎ワナ」だそうだ。
*1810年 南米・アルゼンチンが「5月革命」でスペインからの独立を宣言した。
正確に言うとブエノスアイレスが「自治を宣言した」ということになるが、周辺のパラグアイ、コルドバなどがそれを認めず戦乱状態が続いた。議会で正式に独立宣言が採択されたのは1816年7月9日。ブエノスアイレスが首都になったのはさらに下って1880年になってからである。
独立当時は中央部を流れるラ・プラタ川にちなんでリオ・デ・ラ・プラタ連合州と呼ばれた。スペイン人一行がこの地を踏んだ時に銀の飾りを付けた原住民に会い、川の上流にはきっと銀の山があるに違いないと「銀の川」と名付けた。アルゼンチンはラテン語で「銀」の意味である。
ついでながら漢字ではどう書くかの<三択>「亜尓然丁」、「亜爾然丁」、「阿根廷」
タンゴと牧畜の国といわれてきたが農畜産物と並んでワインやパタゴニアの石油、近年は天然ガスも有望視されている。ご存じブラジルと並ぶサッカー大国で、マラドーナを筆頭に有名選手も多い。
答は、いずれも正解。とはいえ正直、どれも書くのは難しい。
*1951=昭和26年 作家・坂口安吾は夕方、大田区山王の尾崎士郎邸を訪ねて痛飲した。
「頭に詰まっている空気のようなもの」を払おうとしたのだが翌日はひどい二日酔いになった。尾崎は伊東に疎開していた当時からの付き合いだった。妻からの急報で伊東の自宅に帰ってみると税務署が差し押さえに来て帰ったところだった。流行作家としての収入があっても競輪などのギャンブルですべて使いきってしまう安吾に、しつこく税金の督促をする税務署に腹を立て、税金不払い闘争を行っていた。
これでますますつむじを曲げ『負ケラレマセン勝ツマデハ』を執筆した。負け続けた伊東競輪についても着順不正があったとして告訴事件を起こすなど時代の寵児はますます<無頼派>の一面を見せた。
*1899=明治32年 日本最初の食堂車が私鉄の山陽鉄道・神戸―福山間に登場した。
商売熱心でサービス精神旺盛、進歩的な社風だったので「赤帽」の手荷物運搬人制度をいち早く導入したことでも知られる。美文派名文家・大町桂月は翌年の『迎妻旅行』で早速紹介している。
「翌日午前十一時、神戸に着き山陽鐡道に乗りうつる。この汽車は動揺甚しけれども、食堂の設けあるのみが、他処の汽車に其例を見ざる便利の点也。須磨、舞子、明石など勝景の地を、幾皿の肉と一瓶の酒とに陶然としてすごし、岡山にて乗換えて、作州の津山に着きしは、午後七時なりき」
当時は利用者も少なく、純洋式の料理を食堂車で出すのには同社では難しかったようで、始発駅神戸の自由亭ホテル(=みかどホテル)に一任して営業した。官営鉄道での登場はそれから2年遅れの1959=明治34年12月15日に28人席の洋食堂車が1・2等客用に新橋―神戸間の急行列車に連結された。
ところが車両の重量が大きく最初は勾配が急な区間は外され、新橋―国府津間、沼津―馬場(膳所)、京都―神戸の3区間で連結された。通路を挟んで四人席と二人席とがあり計28席。読売新聞は
「食堂車は中央に歩道ありて左右には四個の椅子、一方には二個の椅子を並べてあり、稍々(=少々)窮屈なるは是非もなきこと(=仕方がない)ならん」と紹介した。
「第一区」の木挽町・精養軒が受け持った料理は肉類一品15銭、野菜類一品12銭。すべて単品メニューで混みあった時のために待合室まで用意されていた。