“5月31日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1920=大正9年 大阪・天満にあった大阪監獄が閉鎖され、新しくできた堺監獄へ移された。
大阪監獄の受刑者たちは朝からそわそわと落ち着きがなかった。省線・天満駅のすぐ西側、堀川を渡ったところにあった。この日限りでここが閉鎖され、新しくできた堺監獄へ移される受刑者と、出獄できる受刑者とに振り分けられるからである。極秘事項のはずが面会の家族あたりから漏れたのか、独居房の重刑囚以外は誰もが知っている<公知の事実>になっていた。とくに初犯の面々や模範囚を自負していた連中は<繰り上げ>や<ついで>の出所への期待が大きかった。身ひとつで放り込まれたのだから手回り品もほとんどなく数分の準備で足りた。いちばん“かさばる”のは「わが身」のほうだ。
監獄といえば上方落語の初代春團治の十八番『へっつい盗人』が有名。漢字で「竃」と書き、鋳物製の釜が関西でいう「へっついさん」で、かまどのこと。
知り合いの引っ越し祝いに2人の男が相談して「へっついさん」を贈ることに決めるがお金がない。仕方なしに深夜、近所の道具屋に忍び込んで盗み出すことにする。
「もし見つかったらどないする」
「どうもこうもあるかい。覚悟決めておっさんとこの別荘へでも行ったらええがな」
「あんたんとこのおっさん別荘持ってはるの、わいも連れてってや」
「当たり前や、二人してや」
「どこや」
「さあ、この前まで天満の堀川にいたはったが、方角悪いからいうて堺に宿替えしはった」
「電車で行くのか」
「そんなもん先方から車で迎えに来てくれはる」
「別荘て、大きいんか」
「大きい大きい、レンガの洋館で、高い塀があって鉄の門があるねん」
気前のいいおっさんが時計くれるというのを「金時計か」「いや無期徒刑や」でようやく監獄と気付いて笑わせる。
もちろんここからも色々あって、盗み出したのは良かったが最後は道具屋のおやじに踏み込まれてたっぷり油を絞られ、身ぐるみ持って行かれてしまう。「へっついさん」を粗末に扱ったバチが当たるということでサゲになるのが通じなくなり、道具屋が引き揚げたところで「おなじみのへっつい盗人でございます」で終わる<短縮版>になった。
大阪監獄の跡地はいまの扇町公園でその3年後の1923=大正12年に完成した。堀川は埋め立てられて阪神高速守口線の用地に。扇町公園脇にあるモダンな関西テレビ本社にやってくる若い人たちは「へっついさん」なんか聞いたことも見たこともないでしょう。
*1909=明治42年 東京・両国に初代の国技館が完成した。
丸屋根の巨大な相撲常設館は関東大震災で焼失するまで大相撲の殿堂として数多くの熱戦の舞台になった。それまでの大相撲興業は屋外で行われ、一場所は「晴天10日」が慣例になっていた。つまり天候次第で千秋楽も不定だった。<晴雨にかかわらず>興行できるようになったことは画期的で、6月2日に開館式が行われた。当時の横綱を紹介しておくと常陸山と梅ヶ谷だった。
国技館の名付け親は岡山生まれの作家・江見水蔭といわれる。巌谷小波、尾崎紅葉、田山花袋、広津柳浪らと「明治文壇」を形成した。考古学の発掘調査を<探検>と称し、仲間を引き連れて東京の大森貝塚や千葉の加曾利貝塚、余山貝塚(銚子)などに出かけて掘りまくった。その成果を報告した『探検実記 地中の秘密』(東京博文館、明治33年)という珍本がわがコレクションにあるが脱線しそうなのでこちらはまたの機会に。
*1946=昭和21年 東京・銀座でNHKの「街頭録音」の収録が始まった。
専任の司会は熊倉修一アナウンサーがつとめ第1回目のテーマは「あなたはどうして食べていますか」だった。食糧難やヤミ、インフレにどうやって耐えているかを自由に話してもらおうという企画でアメリカの番組手法を取り入れたものだった。<深刻すぎる内容>に思えるが毎回、黒山の人だかりができた。編集作業をはさんで6月3日に第1回が放送された。同じ6月には当時の片山哲首相が街頭のマイクをはさんで人々と経済情勢を論じ合うという一幕も。
前月4月10日に行われた戦後最初の総選挙実施を受けて20日、日比谷公会堂からは「国民は新議会に何を期待すべきか」という「放送討論会」の第1回が放送中継された。保守、中立、急進それぞれの立場の講師のほか会場の聴衆も討論に参加した。
敗戦後の混乱期における公共放送を使っての<ガス抜き>とも思えるが、この二つは、国民が自由に意見を表明できる貴重な番組になったことは確かである。