“6月4日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1940年 「史上最大の<撤退>作戦」といわれたダンケルクの戦いが終わった。
第二次世界大戦下のフランスに一気に進攻したドイツ軍に対し、ウィンストン・チャーチル英首相はイギリス海外派遣軍とフランス軍合わせて35万人をダンケルクから<救出>することを命じた。
ダンケルクはベルギー国境に近い北フランスにあり英仏間では最も狭いわずか34キロのドーバー海峡に面する港町だ。作戦には軍艦の他に民間の輸送船、貨客船から漁船、ヨット、はしけまで「船」と名のつくあらゆる船舶が動員された。なかにはテムズ川の曳き船まであった。陸上での陽動作戦がドイツ軍の<深追い>を躊躇させたのと「空から一気に叩き潰してみせる」というドイツの空軍大臣ゲーリックの大言壮語がイギリス空軍を奮い立たせるという<奇跡の連鎖>につながり、予定を1万人も上回る36万人超が脱出に成功した。
もっとも、戦車や火砲、輸送トラックなど重装備のほとんどが放棄され、兵士たちはほぼ<丸腰>で帰還したので以後のイギリス軍は深刻な兵器不足に陥った。反面、よく訓練された兵員が残せたことでの人的戦力の確保は大きな成果となり戦争後半での<巻き返し>につながった。
フランス軍はこれ以後、雪崩をうつように崩壊が進み、13日にはパリが陥落、21日には講和(=降伏)を申し入れる。「史上最大の作戦」といわれる連合軍のノルマンディー上陸作戦が始まるのは同じ6月だが4年後である。
*1928=昭和3年 満州軍閥の首領・張作霖が乗っていた特別列車ごと爆破された。
「満州某重大事件」という。なぜシンプルに「張作霖暗殺事件」とか「張作霖爆殺事件」といわないかというと<そう言いたくなかった>から。誰が?それも言いたくなかったらしい。だから<某>がつく。
特別列車は北京から中国東北部の主要都市・奉天(現在の瀋陽)に向かっていた。午前5時30分きっかりに駅の手前1キロ地点に仕掛けられた強力黄色爆弾により車両は大破し、張作霖は瀕死の重傷を負った。ただちに奉天市内の大元帥府に移され、かけつけた夫人が見守るなか外国人医師の手当てを受けたが午前10時前に息を引き取った。56歳の波乱万丈の人生最後の言葉は「我不介意、我去=かまうな、もう行く」だった。
現場は特別列車が走ってきた北京―奉天を結ぶ京奉鉄道の上を南満州鉄道がまたぐ立体交差の「通称・クロス地点」で、満鉄線の橋脚に爆弾が仕掛けられていたため橋脚ごと落下して張作霖のいた4両目を直撃した。直前には特別列車とそっくりの囮の<偽装列車>が通過していたから特別列車の通過を確認しながら爆破ボタンが押された。終点間近ということで指示された時速10キロではあったが爆破のタイミングが数秒でもずれたらここまでの大惨事にはならなかったともいわれる。
奉天駅のプラットホームで歓迎の軍楽隊とともに張作霖一行の到着を待っていた朝日新聞の宮内特派員は爆発音とともに大きな黒煙が上がるのを目撃するとすぐに現場に走った。翌日、号外では唯一写真が紙面を飾ったが、まだ火と煙が上がる大破した車両が生々しい。
見出しは大きく「昨朝奉天驛外に突発せる張作霖氏遭難の光景」。
写真は「大爆破と共に火災を起こし盛んに燃える特別車両」、「屋根をけし飛ばされて無残なる姿となった貴賓車」の2枚で<宮内特派員撮影―本社初風號の空中輸送>とあるのは別取材で大連に待機していた朝日新聞社機「初風號(=号)」に未現像のフィルムごとカメラの「パルモ」を託したからだ。
事件は満州支配を手始めに中国大陸への進出を画策していた関東軍が計画から実行まで全てを仕組んだ「謀略」だったことが近代史では明らかにされている。しかし奉天駅のプラットホームでは日本陸軍の将校らお歴々や奉天市長をはじめとする役人、鉄道会社幹部、張作霖の一族郎党といった面々がずらりと並んで歓迎の軍楽隊とともに張作霖を待ちかまえていた。事件を目撃した朝日の宮内特派員にしても仕組んだのが彼ら陸軍=関東軍だったことはまったく知らなかったはずだ。
その後、国会では野党が陸軍省の発表を虚偽と激しく追及したのに対し「日本の陸軍には幸いにして犯人はないということが判明しました」という<迷答弁>をした陸軍大将出身の田中義一内閣が総辞職に追い込まれた。実行犯らへの最終処分も形式的で甘いものに終わった。
それにしても「満州某重大事件」は<昭和史の闇>の象徴的な事件のひとつとしてこの名前で定着した。<言いたくなかった>のはもちろん最初は「軍部」であり「軍部出身者が牛耳った政府」であり、やがて操られて行くことになる国民世論であり・・・。
あの朝、大地を揺るがせた轟音は満洲に賭けた<未完の英雄・張作霖>が永遠に消された瞬間であったことだけは間違いない。