“6月5日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1942=昭和17年 中部太平洋の「ミッドウェー海戦」で日本海軍が大敗した。
ミッドウェー島はハワイと日本のちょうど中間にあることからその名がついた。日本は対米の橋頭保としての島の確保ではなくアメリカの空母機動部隊を誘い出すための作戦を狙っていた。ところがこの動きは暗号解読や作戦分析で事前にアメリカ側につかまれていた。ハワイ・真珠湾以来の戦勝にゆるんだ日本側は数的優位を過信したまま十分な警戒を怠り、航空母艦6隻、重巡洋艦10隻など計86隻での作戦を展開していた。
確かにこの時点では戦力的には日本が有利かともみえた。相手の動静について出された信号命令は「本日敵出撃ノ算ナシ」のはずだったが、突然の相手の爆撃機による急降下急襲を受け、またたく間に航空母艦3隻が炎上してしまう。最終的には「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻と重巡洋艦「三隈」が撃沈され、航空機搭乗員110名を含む3,057名を失った。他方、アメリカ側は航空母艦「ヨークタウン」と駆逐艦1隻を失ったものの損害は軽微だった。太平洋戦争のターニングポイントになった<運命の日>といわれるのもそれぞれの損害の差にある。
参謀本部はこの事実をひた隠しにして報道へは損害を過少にした<うそ発表>を行った。朝日新聞は「東太平洋の敵根拠地を強襲」「米空母2隻、エンタープライズ、ホーネット撃沈」「わが二空母、一巡艦に損害」と報じた。「太平洋の戦局此一戦に決す」の大見出しに至っては<逆もまた真なり>。日本側にそのまま当てはまるものだった。
戦後、<真相>について生き残った当時の司令官らは、米軍の攻撃があと5分間遅ければ艦載機をすべて発進できたとする「運命の5分間」説を語った。しかしそれは戦没した司令官らに隠れて自らの判断や作戦ミスを隠ぺいする狙いがあったことが明らかになる。実際に発艦するためには1時間以上かかるとされていることからも作戦以前の敵状分析や索敵の失敗が大敗北の原因だった。米軍側がすでに空母などへ実戦配備していたレーダー開発の差などからも<負けるべくして負けた>わけだ。
<撃沈>されたはずの「エンタープライズ」はホノルルへ帰投。修理後は前線に復帰して太平洋戦争を無事生き延びた航空母艦3隻のなかに入った。ベトナム戦争当時、長崎県・佐世保入港に反対するデモ隊が押し掛けたのは<栄光の艦名>を受け継いだ原子力空母のほうである。
*1864=元治元年 新撰組を一躍有名にした池田屋事件が起きた。
池田屋には長州藩士を中心とした尊皇攘夷の過激派が集合するという情報があったため局長の近藤勇が沖田総司、永倉新八、らを引き連れて池田屋に向かい、その後土方歳三らが応援した。2時間に及ぶ暗闇の斬り合いの末、長州藩士ら7人が死に23人が捕えられた。
会津藩からは手当金5百両と藩主の松平容保からはおほめの言葉をもらい近藤が念願としていた幕臣登用の道が開けた。
*1873=明治6年 いまの定期券にあたる「往復常乗切手」が発行された。
ただし、対象は1等と2等のみ。3等の定期券は1903=明治36年に発売された「通勤定期券」がはじまり。鉄道に載って通勤するなど庶民にはまったく考えられない時代だった。
*1882=明治15年 嘉納治五郎によって柔道の講道館が創設された。
嘉納は自身で学んだ柔術の技と理論を独自に体系化した。まず根本に基本となる「道」があり「術」はその応用であるとして柔術から柔道に改め、その道を講ずるところとして道場を「講道館」とした。最初の道場は東京・下谷の永昌寺におかれ、その後、南神保町、上二番町、富士見町などと移転して文京区春日の現在地に落ち着いた。
柔道の段位は、嘉納が囲碁や将棋にあるのを参考にして取り入れたもので十段まである。帯の色は初段から五段までが黒、六段から八段が紅白のまだら、九段と十段は赤で過去の「十段赤帯」は10人だがすべて故人という。では本人は何段だったのかというと「段位を与える人間がいない」から<段位なし>だそうだ。「柔道の父」が残した名言を紹介する。
人に勝つより 自分に勝て
人生には何よりも「なに、くそ」という精神が必要だ
時間を最も有効に利用した者に、最も立派な仕事ができる
勝って、勝ちに傲ることなく 負けて、負けに屈することなく
安きにありて、油断することなく 危うきにありて、恐れることなく
ただ、ただ、一筋の道を、踏んでゆけ