“6月7日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1500=明応9年 京都・八坂神社祇園会の山鉾巡行が33年ぶりに復活した。
京の町の大半を焼きつくした応仁の乱(1467=応仁元年)で、58基もあった山鉾のほとんどを失った。しかし町衆の努力でようやく山鉾の復旧ができて巡行が復活した。このときの数はまだ乱の前の半分以下の25基だけだったが、祭りの規模も年々盛大になり巡行の山鉾も増えて行く。
以後、第二次世界大戦時の中断をはさんで現在の祇園祭につながる千年を越える伝統行事になった。東京・神田祭、大坂・天神祭とともに「日本三大祭り」と呼ばれるが、ともに厄病や悪霊の退散、鎮魂のために始まった歴史がある。祭りの巡行の順番を決める「くじ取り式」は競争を避けるためこのときから始まった。現在の山鉾のうち29基が62年に重要有形民俗文化財に指定されている。祭の行事全体が重要無形民俗文化財に、09年にはユネスコの無形文化遺産にそれぞれ指定された。
幕末の「禁門の変」(1864=元治元年)の大火で本体部分を失った「大舩鉾(おおふねぼこ)」別名、凱旋舩鉾は巡行のいちばん最後を飾っていたことで知られる。現在、焼失前の原寸で再建中。焼失から150年目にあたる2014年に33基目の山鉾としての巡行復帰をめざしている。
「コンチキチン」のお囃しとともに山鉾巡行が京の町に本格的な夏の暑さを呼ぶのも間もなくどすな。
*1873=明治6年 東京市中での牛乳搾乳のための牧畜が正式に許可された。
現在は<都心>となっている築地、芝、麹町、神田、麻布、市ヶ谷、高輪の空いた大名・旗本の屋敷跡などが使われることになった。それにしても現在ならとても考えられないような<一等地>のロケーションである。一時は開墾を進めたりするアイデアも出され、元・武士たちが刀を鍬や鋤に替えて自分の家族らの食いぶちを賄うということも行われたが、乳牛を輸入して繁殖させるのが手っ取り早いと考えられたか。
神田猿楽町に作られた「北辰社」は子爵・榎本武揚、男爵・大島圭介らの共同経営で、松方正義は芝三田に、山県有朋は麹町3丁目に、由利公正は京橋木挽町に、桑名藩主・松平定数は向柳原(台東区)にというように出資者や経営者には旧藩主や有力旗本などそうそうたるメンバーが名を連ねていた。それぞれの牧場には「牛乳店」を併設してもよろしいとされた。これで庶民の間にもじわじわと洋風のハイカラ生活をめざす<牛乳を飲むという習慣>が浸透していくはずではあったがまだまだ乳牛そのものの頭数自体が少なかった。10月には当時の東京府から「牛乳搾取人心得」が公布されたがとりあえず法律整備だけはできたという段階だった。
*1245=寛元3年 鎌倉幕府のお膝元である府内=鎌倉の治安維持のために松明が用意された。
夜になると辻々に篝(かがり)火が焚かれ、住人が順番で夜回りをした。この日、幕府は住民に常に松明を用意して、夜討ち・殺人があれば直ちにそれを持って集まることを命じた。そのくらい<危険がいっぱいの都>だったわけだ。
*1951=昭和26年 計量法が施行され長さの単位はメートル、質量はキログラム、時間は秒に。
尺貫法に慣れた人々の戸惑いは大変なものだった。当分の間は併用して表記されるなどしたが世代交代してこんどは・・・今は昔といいますか。
*1881=明治14年 新橋―横浜間の複線化が完成した。
最後まで残っていた鶴見―横浜間の複線化工事が完成して新橋から横浜までは上りと下りがそれぞれ別の線路で往復できることになった。しかし横浜駅はまだ片側だけのホームしかなかったようでこの年12月1日に長さ170mと140mのホーム二面ができた。「汽笛一声新橋を」で始まる『鉄道唱歌第一集 東海道』は66番まであるがようやく
鶴見神奈川あとにして
ゆけば横浜ステーション
湊を見れば百舟(ももふね)の
煙は空をこがすまで
の5番までやってきたことになる。もっとも「第五集」まであるうちの「第一集」ができたのは1900=明治33年5月だからまだだいぶあと。
文明開化の槌音高く、鉄路は続くよ、どこまでも!