“6月8日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*632年 預言者ムハンマドが聖地・メディナで死去した。
イスラム教の開祖で政治家、軍事指導者などの顔を持つ。アラビア半島にイスラム国家を打ちたてた。日本ではラテン語表記などからマホメットと呼ばれることが多かったが近年はムハンマドが主流に。しかも同じ名前が多いので区別のために「預言者」を付ける。
ムハンマドはメッカへの最後の大巡礼からメディナに戻って間もなく体調をこわした。実際に死んだのがこの日だったのかは死因と同じく諸説があるが、自宅のあった場所と墓は「預言者のモスク」と呼ばれる墓廟になっている。「預言者の町」の別名があるメディナはメッカと並ぶイスラム教の2大聖地のひとつになった。ところで彼の名前もだが、メディナは「マディーナ」、メッカも最近は「マッカ」と表記されることが多い。
いささか手あかのついた形容だが「蔵王はスキーのメッカである」という<メッカ>は「その方面の中心地。あこがれの土地。マホメットの生誕地で多数の回教徒が訪れる」(角川類語新辞典)、そうなると死語になりますなあ。
*1908=明治41年 関東各地に大降雹、つまりヒョウが降り、農作物などに甚大な被害が出た。
一天にわかにかき曇り、真っ暗になった途端に豪雨がバラバラという音とともにヒョウに変わり見る間に十数センチも積った。なかには直径12センチの<大物>もあったそうだ。3年後、1911=明治44年には同じ6月の7日に青森県地方で90センチも積った記録がある。国内で降った最大のヒョウは1917=大正6年6月29日に埼玉県熊谷市で記録した直径29.6センチで重さ3.4キロ、ということはサッカーボールを超えてプロバスケットのボール大。古くは推古天皇(554―628)の時代の記録にもあり「大きさ桃子の如し」とか「桃李の如し」と形容している。
いちばん降りやすいのは5月から6月にかけて。寒気の張り出しに暖かくて湿った空気が吹き込むことで急速に積乱雲が発達して起きる。屋根に大穴があいた、車の屋根やボンネット、窓ガラスが壊れた、ビニールハウスが倒壊した、瓦が割れたなどの被害はあるものの幸いに死者はなさそうだ。
<スモモもモモもヒョウのうち>でも大変だろうが<バスケットボール大>となれば
八大龍王怒って雹を抛(なげう)ちし 青木月斗
どころでは済むまい。
海外では1988年にインドでオレンジ大のヒョウが降り230人が死亡。1957年には西パキスタンで32人が死亡、羊やヤギが1,000頭以上死ぬ惨事となった。さらに1986年にはバングラデシュで重さ約1キロのが大量に降り92人が死亡しているからあなどれない。
*1216=建保4年 『方丈記』の作者として知られる鴨長明が没した。
「方丈」とは一丈=3m四方だから9平方メートルの部屋を想像してもらえればよい。ということは4畳半ほどのスペース。その昔、インドの維摩(ゆいま)という大富豪が仏教に帰依してわずか「方丈」の狭い部屋に起居しながら菩薩への道を修行したという。これが「維摩経」というお経として早くから日本に伝わり、藤原鎌足が晩年に深く信仰したことから奈良・興福寺などでは維摩会(え)という行事が盛んになった。当時の貴族のあいだでは方丈といえば維摩、維摩とは高い精神の自由と世界に対する深い愛の境地を自己の精神の最終目標とすること。究極の<愛>の境地は方丈でこそ生まれると信じて出家した。
実際に一丈四方の部屋ひとつしかない庵を建てて、そこに住んだ作者が自分のエッセイに『方丈記』という名を付けた。その書き出しが
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
京の名家の次男坊に生まれたが父を早く亡くし親族からも疎外され妻子とも別れる。歌人として武士として生きていくなかで平安京の三分の一を焼く大火事があり、戦さがあり、政権交代があり天変地異が相次ぐ。歌人としての最後のチャンスを求めて鎌倉に下り、源実朝に会うが実朝は二年も前から<流行歌人>の藤原定家に師事していた。
京都・日野の山中の方丈に戻った長明は一気呵成に『方丈記』を書き上げた。ちょうどいまごろの季節、しかも誰にも邪魔されず月だけに見守られて。琵琶の名手で琴もでき、和歌は作歴40年という<一代の才人>にとっては原稿用紙にすれば20枚足らずのボリュームだから伝説の「一晩で書きあげた」ということもできたはず。
「魚は水に飽かず、魚にあらざればその心を知らず。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心を知らず。閑居の気味もまた同じ。住まずして誰かさとらむ」と喝破している。