“6月9日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1933年 イギリスの『デイリー・エクスプレス』がネス湖の怪魚が目撃されたことを大きく報じた。
ネス湖はスコットランド北部にあるイギリス最大の淡水湖。湖畔でホテルを経営する夫婦の<目撃証言>に英国中が注目した。近くの町からの道路がようやく整備されたが濃霧の日が多く、冬場は長く雪におおわれる「へき地」だったことで<神秘性>が増し、「たしかに何かがいそうかも」と思わせた。
11月にはあの白黒の“ピンぼけ写真”が明らかにされ「ネッシー」の名が付けられた。さらに翌年4月には鳥の写真を撮っていたロンドンの外科医が偶然撮影したとする水面から首を伸ばして移動する姿がライバル紙『デイリー・メール』にスクープされた。おなじみの有名な「ネッシーの写真」で専門家は背中の突起などからこの未確認生物は恐竜時代に栄えた大型の首長竜プレシオサウルスではないかと分析する。「恐竜がまだ生きている可能性がある、その名はネッシー!」このニュースは世界を駆け巡り、取材陣が押し寄せ、何度も学術調査が行われる騒ぎになった。日本からもいくつもの「探検隊」が送り込まれ、テレビ放映されるなど未確認生物の代表例として<20世紀最大のミステリー>のひとつに。
ネス湖は周辺の河川から流れ込む泥炭で透明度は3m以下、水中カメラでのかわりに調査には最新式の音波探知ソナーや掘削機械も使われた。古生物学、地質学、動物学から超常現象研究家まであらゆる分野の専門家が動員された。数次にわたる学術調査の結果、湖底はほぼ平らで大型生物=ネッシーが潜まる窪みなどはなく、海とつながる<抜け穴>もなかった。何度もその真偽が議論されたがやはりいくばくかの<謎>は残った。希望という。
そして1993年11月、外科医に同行した男性が死の床で「あれはすべて捏造だった」と告白した。湖畔で見つけた「ネッシーの足跡」が真っ赤なニセモノと馬鹿にされた意趣返し。エイプリルフールのために潜水艦のおもちゃの上に恐竜の首に似せたものを取り付けて水中を動かしながら写真に撮った。撮影者を医者としたのは信用される職業だから。ほんのジョークのつもりだったがあまりに大騒ぎになったので言いだせなくなってしまったと。大方の予想通りの結末ではあったが、世界中で多くの<ネッシー本>や写真集が出され、湖畔には「ネッシー博物館」までできた。報道陣が動きまわったことも含めかなりの<経済効果>はあったわけでいまも未確認物体といえば真っ先に挙げられる。
上野動物園がこどもたちに行った「パンダの次に呼んでほしいもの」アンケートでは堂々の2位だったそうで。「最初は大きな魚、次に恐竜、最後に潜水艦になるもの」といったらなーに?
ネッシーはわれわれ人間の想像や願望が育てた<幻獣>だったことは間違いない。
*1935=昭和10年 日比対抗陸上競技大会の陸上100mで吉岡隆徳が10秒3の世界タイ記録。
島根県出身、3年前、1932年の第10回ロサンゼルス五輪では東洋人初の100m6位入賞を果たした。吉岡の強みは当時、世界のトップレベルといわれた全身のばねを生かした低い姿勢からのスタートダッシュで報道陣は「暁の超特急」と名付けた。以降、オリンピックでの短距離種目での決勝進出者は92年のバルセロナ五輪400mの高野進まで現れなかった。関西と東京とを転戦する日比対抗陸上は「関東・近畿・比島対抗陸上競技大会」が正式名称だが「関東代表で暁の超特急走る!」ということで全国民の期待と注目を集めた。甲子園での快勝に続く15日の明治神宮外苑競技場でも同タイムで優勝を飾り、日本陸上界の短距離走が世界に追い付いたことを示した。
吉岡は戦後、広島県庁に勤務したあと広島カープの初代トレーナーを経て陸上界に復帰した。リッカーミシン陸上部監督として飯島秀雄や依田郁子らを指導、東京女子大学の教授をつとめた。「ロケットスタート」のはしり<超特急>は100mを走ることに生涯こだわり続けた。
*1923=大正12年 作家・有島武郎が軽井沢の別荘で美貌の人妻・波多野秋子と心中した。
46歳の有島は妻と死別、30歳の秋子は『婦人公論』記者で夫があった。遺書に「愛の前に死がかくまで無力なものだとは、此瞬間まで思はなかった」とあり二人の関係を清算した<不倫心中>で死後約1カ月たってようやく発見された。天井からぶら下がったままの死体の状況をあれこれと書き立てられ永井荷風も「人跡絶えたる山中の一つ家に隠れ、荒淫幾日、遂に相抱いて縊死す。日を経て悪臭数里を漂ひ人の初て之を知る・・・」と誇張気味に皮肉った。
昭和に続く不安の時代にあって『カインの末裔』『或る女』『生まれ出づる悩み』などの小説や評論『惜しみなく愛は奪ふ』で一世を風靡したストイックな人気作家も誘惑された相手の亭主から<愛を奪われそうになって>情死にはしった。当時は心中、相対死で『人それを情死と呼ぶ』で「情死」という言葉をはやらせたのは戦後の鮎川哲也でしたか。