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“6月10日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1959=昭和34年  「松方コレクション」を中心に収蔵する国立西洋美術館がオープンした。

実業家の松方幸次郎は大正初期から昭和初期にかけてイギリス、フランス、ドイツなどで西洋絵画、彫刻、日本の浮世絵などの美術品を手当たり次第に買いまくった。語弊がありそうだから<資金力と審美眼によって>に訂正しておくけれども。

松方は明治の元勲で内閣総理大臣をつとめた松方正義の三男で東京帝大を中退しエール大学とソルボンヌ大学を卒業した。帰国した翌年1891=明治24年の第一次松方内閣組閣に伴い父の首相秘書官になった。その後、川崎財閥の創設者・川崎正蔵に請われて川崎造船所の初代社長に就任すると語学堪能で商才を生かして神戸新聞や川崎汽船など多くの会社の社長をつとめ<攻めの経営>で業績を伸ばした。

コレクションのきっかけは1916=大正5年に貨物船の売り込みにでかけたロンドンで画家フランク・ブランディンと知り合い、そのアドバイスで2年間にイギリス絵画1,000点を収集して一躍コレクターとしても有名になった。1921=大正10年4月から翌年2月までの10ヶ月間にはさらにコレクションを増やした。このときの渡航は日本海軍の依頼でドイツの潜水艦「Uボート」の設計図を密かに入手するのが目的であったともいわれる。

画商を訪ねてはステッキで「ここからここまで全部」とさし示し、フランスの宝石商からは浮世絵コレクション8,000点のすべてを購入した。当時健在だった印象派の巨匠モネの自宅では飾られていた作品18点全部を所望した。モネは「ここにあるのは気に入った作品ばかりだが君がそんなに私の作品が好きなら」と譲渡を快諾したエピソードが残る。あるとき「いま自由に使える金は3,000円ある」と漏らした。現在の300億円に相当する、しかも達者な語学で駆け引きもうまかった。ゴッホの『ファンゴッホの寝室』とルノワールの『アルジェ風のパリの女たち』も画商の前では<まったく気のないそぶり>で、買ってくれと頼まれてから<渋々>入手したというからかなりの役者ぶりだ。

ここからは駆け足――昭和初期の世界恐慌で川崎造船所の経営が破たん。国内にあったコレクションの一部は負債の弁済として売り立てに出され、ブリヂストン美術館や大原美術館に収蔵された以外の大半は散逸した。浮世絵コレクションは皇室へそっくり献上されて現在は東京国立博物館に収蔵されている。海外にあったものはイギリスの約300点は火災で焼失、フランスの約500点は終戦時にフランス政府に押収された。

戦後、サンフランシスコ講和条約で吉田首相がフランス側に「個人資産」であるからと強く<返還>を要求、ようやく収蔵のための美術館建設を条件に<寄贈>がまとまった。フランスを意識してか設計はスイス生まれだがフランスで活躍していた巨匠ル・コルビジェに決まった。返還交渉では『アルジェ風のパリの女たち』やモネの『水蓮』などの絵画や版画、ロダンの『考える人』『地獄の門』などの彫刻計370点がリストにあがった。だがフランス側がどうしても譲らなかった『ファンゴッホの寝室』はオルセー美術館に残された。

そこで生まれたのが「寄贈返還」という珍妙なことば。頑固なフランス政府に譲歩して日本側は「実」をとった。国内唯一のコルビジェ作品=建築物である国立西洋美術館本館は重要文化財に“昇格”してユネスコの世界遺産の候補となったのは計算外ではあった。それにしても松方コレクションは全体では何点あったのか。松方自身は一切の記録を残さなかったし正確な点数は現在もわかっていない。

*1913=大正2年  森永製菓が日本ではじめてミルクキャラメルを発売した。

当時の呼び名は「アメチョコ」で、一袋が80粒入りで40銭だった。秋からは「ミルク」をつけて「ミルクアメチョコ」として宣伝した。大工さんの日当が1円20銭だったから値段も相当に高かった。しかもミルクやバターの味を知らない人が大半という時代、販売には苦戦したわけです。

翌年3月に上野公園で開催された東京大正博覧会では現在のような20粒入りの小箱を1箱10銭で発売した。各地で開催された連動イベントの会場や省線電車・地下鉄に社員が小箱を持ち込んでわざとらしく食べてみせるというデモンストレーションも。こうした涙ぐましい努力の甲斐あってようやくマシュマロに次ぐ<人気商品>になった。

*1920=大正9年  天智天皇が水時計で時刻を測らせた故事から「時の記念日」が制定された。

東京天文台が庁内に「電話通報係」を置き、正確な時刻の問い合わせに応じた。

「もしもし、いま何時何分何秒でしょうか?」
「はい何時何分・・・秒は・・・」

これではきりがないから<水も漏らさぬ対応>もせいぜい「分」までだったか。

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