“6月18日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1868=慶応4年 大阪府が府名を大阪府とする布達を出した。
いや、「これ以後は大阪府とする」というのだから出した時点では大坂府だったわけで「大坂府が府名を大阪府をとする」が正しいか。おまけにこの年は9月8日の明治天皇の即位=践祚により「改元の詔書」が出された。「改慶応四年為明治元年」つまり慶応4年を改めて明治元年とするということで年号そのものも明治に変わった。そうなると「明治元年に代わった慶応4年」ということになる。こちらは“あと出しじゃんけん”みたいなものだからややこしくなるだけ。落語だってややこしい<マクラ>は受けないぞ。
落語といえば『東の旅』に「オサカ離れて早や玉造、笠を買うなら深江が名所」とあってここではオサカまたはオザカ。大坂が文書に登場するのは蓮如上人のころというから15世紀。江戸時代には大坂と大阪が混在していたが庶民のあいだでの呼びかたは依然、オサカが生きていた。それが明治に入って新聞雑誌が「オオサカ」とルビを振るようになり大阪(大坂)駅にも「オオサカ」と片仮名の駅標が登場した。
一部には「土偏に反るは<土に還る>で消滅を意味するから縁起が悪い。「盛んな意を持つ<阝(こざと) 偏>の阪にすべき」と1808=文化5年に出された『摂陽落穂集』にあるからそれがようやくかなったことになる。いずれにしても「布達」が出されたからには府の文書では「誤記」ということになるがしばらくの間は混在していたらしい。
ところで「明治」という年号は中国の『易経』からとられた。江戸時代から候補に挙がること実に11度目。宮中賢所で天皇自ら抽選の結果ようやく選ばれたという。
*1873=明治6年 鳥取県で新政に反対する一揆が起きた。
「米価を下げ、徴兵をやめ、小学校を廃止し、太陽暦を太陰暦に戻し、半髪を許せ」という要求を掲げた住民2千人が竹槍で武装蜂起した。前年11月28日の「全国徴兵の詔」に続き、1月10日に公布された「徴兵令」では兵役免除が官吏、所定学校の学生、洋行修行者、戸主とその相続者、代人料270円納入者とされた。代人料は兵隊1人当たりの年間経費90円の3年分だったから払えるのは一部の富豪の子弟に限られるとして反発を呼んだ。政府の狙いは士族による軍事力を廃して国民皆兵制度を敷くことで四民平等に徴兵の義務を負うということだったが、それを裏返せば士族の常職・常雇いを解くことでもあった。
半髪(=はんこう)は頭髪の前半分を剃って後ろのほうを残しておく髪型で、子供の場合は参勤交代の「奴」の髪型そっくりなところから「やっこ」と呼ばれた。
有名な俗謡『ざんぎり頭』(1871=明治4年)には
ざんぎり頭を叩いてみたら 文明開化の音がする
半髪頭を叩いてみたら 因循(=因習)姑息の音がする
総髪頭を叩いてみたら 王政復古の音がする
とある。せめてざんぎり(散切)ではなく<ハンコウ(半髪)にせよとハンコウ(反抗)した>わけ。
県庁はやむなく壮士を繰り出して鎮圧したが、こうした一揆は全国で起こり福岡県などでは<血までとられる>という勘違いから広がった「血税一揆」とも重なり多くの死傷者を出した。
*1558=永禄元年 戦国大名の北条氏が「伝馬手形」を発行した。
もっとも古い手形がこの日のもので家臣、使節、兵員の往還、物資輸送のために発行した。この手形があると各宿場に馬を用意させ目的地まで自由に馬と世話する人足を使うことできる<無料通行手形>だった。多くは小さな巻物の形をした「帖装」で、出発地と目的地が書かれて「虎の印判」に朱印が押してあった。「虎の印判を持たざる者に、伝馬おしたて致すべからず」という文書も残されており、手形を所持ししていない者にはみだりに伝馬を用立てするなと規制している。
相模国を治めていた北条氏は小田原から西は酒匂、国府津、平塚、藤沢を経て玉縄、鎌倉へ、北は小田原から厚木、当麻、田名を経て八王子や、さらに石戸、毛呂あたりまでの街道を整備した。
40年にわたって甲斐(山梨)から諏訪(長野)までを押さえていた武田氏にも同じような制度があり、こちらは公用の場合は朱印が2か所、私用の場合は1か所で、私用の場合には「一里(3.75キロ)あたり6銭を徴収すること」と定められていた。公用の場合はどうだったかというと年貢の減免などが見返りだったそうだから実際に馬を飼い人足を雇って制度を運営するほうには負担が大きかったはずだ。
ちなみにこの永禄元年は『太閤記』によると木下藤吉郎と名乗っていたのちの豊臣秀吉が、厳寒の朝、ふところで温めた草履を差し出して織田信長に気に入られて召し抱えられたあのエピソードの年である。