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“6月19日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1933=昭和8年  丹那トンネルが15年にわたる難工事の末、貫通した。

現在の御殿場線を経由していた東海道本線は急勾配が続くため、国府津・沼津間はすべての列車に登坂専用の補助機関車を連結する必要があった。遠回りするから区間距離も長く、機関車の連結、切り離しの時間も含めスピードアップのネックになっていた。このためほぼ直線で熱海―函南間を結ぶことで線路が約12キロ短縮でき、スピードアップが図れるとして1918=大正7年3月21日にトンネルの掘削が開始された。

ところが付近は富士箱根から伊豆半島へと続く国内有数の火山地帯で、過去の溶岩流や火砕流などが複雑に堆積しており活断層が5本も走っていた。予期せぬ大量の湧水や岩盤崩落が続き、着工の翌年4月1日には熱海口から270メートル地点での崩落により42人が閉じ込められ17人は救出されたが25人が死亡した。

さらに3年後の1923=大正12年には三島口での崩落で16人全員が死亡、1930=昭和5年にはこの断層を震源とする北伊豆地震が起きて5人が死亡し、切羽部分も2メートル横にずれた。これ以外にも湧水事故などにより計67人が犠牲になった。ところが東海道線や御殿場線などに大きな被害をもたらした関東大震災では不思議なことにトンネル部分にはほとんど被害はなかった。

貫通から列車開通までさらに1年半かかったのはトンネル内での煙の充満を防ぐため蒸気機関車ではなく電気機関車にするための電化工事を同時に進めたため。地震のずれもゆるやかなS字カーブにすることで解決した。それまでは熱海線という支線だったのを複線化するとともに線路の地盤を強化し列車のスピードアップに耐える「100ポンドレール」に入れ替えた。途中駅のポイントなどもすべて改良し3ヶ月間にわたる入念な試運転が行われて1934=昭和9年12月1日に開通した。

着工の時点では完成すれば7,804メートルで<長さ日本一>になるはずだったが、3年後の1922=大正11年に着工、1931=昭和6年9月に完成した上越線の清水トンネル(9,702m)に先を越されて第2位になった。当時は日本の鉄道始まって以来の最大の難工事と称されたが、北陸本線の北陸トンネルが13.87キロで同じ狭軌では国内最高。将来の北海道新幹線への<兼用>も考えて掘られた津軽海峡直下の青函トンネルは丹那トンネルの7倍近い53.85キロもあるから単位をキロに変えた。世界一とされるわが国のトンネル技術の進歩には隔世の感があります。

*1970=昭和45年  第二次世界大戦以来中断していた関釜フェリーが再開された。

就航したのは「フェリー関釜」(3,800トン)で現在まで続く海のハイウェーとなった。関釜フェリーのはじまりは1905=明治38年9月に山陽鉄道傘下の山陽汽船が関釜連絡船として新造の「壱岐丸」(3,800トン、乗客317名)を使い隔日1往復の運航を始めた。2カ月後の11月には同じ三菱重工業長崎造船所で建造された兄弟船「対馬丸」を投入することで毎日運航となった。翌年、鉄道国有法で山陽汽船は日本国有鉄道の前身の鉄道省に移り、1910=明治43年の韓国併合で「国内航路扱い」となった。

ジャパン・ツーリスト・ビューロー(=日本旅行協会)発行の1935=昭和10年版『旅程と費用概算』には「通貨は大抵日本貨で充分事足りるから携帯には日本貨を以てし、万一必要の場合は行く先々で当座の入用だけ両替するがよい」としているものの、釜山―下関間(関釜連絡船に依る場合)では「朝鮮行の際及内地帰還の際とも連絡船内に於て日本税関の検査がある」。さらに写真撮影については「旅客が無意識に撮影又は描写を為し、夫れが偶々要塞地帯法に触れて思ひもよらぬ面倒を惹起する例は少なくない。以下に其筋の許可なくして撮影又は描写禁止の箇所を掲げ一般の参考に供する」という注意を載せている。
関釜航路では
▶下関・門司を含む下関要塞地帯内の海陸
▶釜山・馬山・鎮海要塞地帯内の海陸
をあげ、写真だけでなくスケッチさえも厳禁だった。

下関は関釜連絡船が就航して以来、大陸貿易の基地として重要な地位を占めてきた。第二次世界大戦戦時の1943=昭和18年に下関港の容量不足と輸送量増強の目的で博多―釜山間に「博釜連絡船」が新設されたが終戦の年1945=昭和20年に船舶への空襲と対馬海峡の封鎖で航路はいずれも消滅した。

<閉ざされていた海峡>といえば在日朝鮮人文学者のさきがけと言われた作家・キム・ダルス(金達寿1919-1997)の『対馬まで』(河出書房新社・1979)を思い出す。キムは韓国・慶尚南道の現・馬山市生まれ。10歳で来日し苦学しながら習作に励んだ在日一世だ。戦後、はげしい望郷の念にかられるが帰国など許されない。仕方なく日韓国境の島、対馬に渡り、最北端の上対馬から釜山の街の灯りを遥かに眺め泣きながら叫ぶシーンがある。
「鳥ならわずか50キロのこの海峡などひとっ飛びなのにそれさえも叶わないとは!」。

いまはそんな歴史など知らない多くの若者たちを乗せてこのフェリーは下関に本社がある日本の関釜フェリーと韓国釜山に本社がある釜関フェリーの2社が共同運航を続ける。

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