“6月24日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1935年 南米コロンビア・メデリン空港を離陸直後の旅客機が墜落し乗員乗客全員が死亡した。
旅客機にはニューヨークでの映画撮影を終え、南米各地をコンサートで巡回途中だった人気アルゼンチンタンゴ歌手で俳優のカルロス・ガルデルや伴奏ギタリストのアルフレット・レ・ベラらとひとりの少年が乗っていた。事故の詳細や原因、少年の名前もわからないが、少年は直前に<代わりに選ばれて>事故に巻き込まれた。誰の代わりだったかというとのちにアルゼンチンタンゴに<革命>を起こした作曲家でバンドネオン奏者のアストル・ピアソラである。
ピアソラはイタリア系移民の子としてアルゼンチンに生まれた。父親がアメリカへ出稼ぎに行くのに連れられて4歳でニューヨークへ移住した。子供時代はジャズに親しんだ。ガルデルの熱心なファンだった父親がニューヨーク公演に来ていたガルデルに手彫りの熊の人形を贈るのを思いつく。これならずっと手元に置いてくれるはずと。渡し役のピアソラはホテルでガルデルに会い、バンドネオンが演奏でき、英語が得意で道案内もできると言うとすっかり気に入られた。買い物にも付き合わされ、さらに翌年、ガルデル主演の映画に新聞配達の少年役でワンカットだけだが出演した。ピアソラ一家はお礼にガルデルを食事に招待した。席上、ガルデルはピアソラをこんどの南米ツアーに連れて行きたいと申し込んだが父親は「まだ小さいから無理だ」と断った。気落ちしたガルデルは「仕方ない。別の子を連れて行きましょう」と答えたが、ピアソラは同行したかっただけにひどく落ち込んだ。そしてこの事故、タンゴファンは悲しみにくれ、ラテン音楽界も大きな痛手を受けたがピアソラと両親<運命の不思議さ>を思った。航空機事故に限らず危うく難を逃れるということは数限りなくあるかもしれないが当事者にとってはいったん掴まれた<運命の手>から外れて生かされたという思いは強く、ピアソラも終生この思い出を語った。
そしてピアソラはガルデルを超えた。ダンスの添え物でローカルな存在だったタンゴをクラシックやジャズなどと融合させることで<タンゴの革命>として国際的な評価を得た。バンドネオンにヴァイオリン、ピアノ、コントラバスにエレキギターを加えた五重奏の「ピアソラ流」を完成した。『ブエノスアイレスの四季』『天使の組曲』『悪魔の組曲』など数多くの作品を残したが『リベルタンゴ』は世界的チェロ奏者のヨーヨー・マが演奏、加藤登紀子も歌う。
1992年にパリで倒れ大統領専用機でアルゼンチンに帰国、ブエノスアイレスの病院で71歳の生涯を閉じた。
*672=弘文元年 わが国古代史上最大の戦乱、壬申(じんしん)の乱が始まった。
この日、吉野を出た大海人皇子は大津京をめざして進軍を始めた。前年10月、病に倒れた天智天皇を弟の大海人皇子が久しぶりに見舞った。半刻後、衆目の見守るなか大海人は宮中の仏殿で髪を剃り落とす。天智が王位を譲るという意思を示したのをさえぎり、私は吉野に籠もって仏道修行に励み、あなたの病気平癒をひたすらお祈りしますと応えたとされ、数人の供を連れただけで大津京を後にした。これが第一幕。
12月、天智没、後ろ盾を失った子の大友皇子は卑母から生まれただけにそのまま即位できずにいる間に大海人が立ったわけだ。この直前に大海人を巡るできごとがあった。「駅鈴(えきれい)入手失敗事件」と呼ばれ、東国へ逃れようとした大海人が官馬を乗り継ぐための<手形>にあたる駅鈴の入手に失敗した。急報を受けた近江京の大友が対応を協議している間に大海人の出立となる。
「急なこととて乗物(駕籠)もなく徒歩でお出かけになったが県犬養連(あがたいぬかいのむらじ)大伴の乗馬に出あったのでこれにお乗りになった」
と『壬申紀』にある。しかし駅鈴の件が<陽動作戦>ならこちらはやむなく挙兵したのを正当化するための<作文>か。カギは病気見舞いの半刻にあるように思うがあくまで密室でのこと。諸説あり、だから歴史はおもしろいのかもしれない。主戦場となる近畿・東海地方だけでなく東国から九州まで乱の影響が拡がっていく。
「人のわざそなはりて、東の国に虎のごとく歩みましき」と『壬申紀』は大海人を評した。
*1958=昭和33年 午後10時過ぎ、熊本県の阿蘇山が突然大爆発を起こした。
爆風と火山弾でロープウェ―やバスターミナル、茶店などに宿直していた従業員ら12人が死亡、28人が負傷した。降り積もった火山灰で建物などはすっぽりと埋まり測候所の風速計は33.6メートルを指したまま壊れた。新聞は「噴火というより爆裂」とか「眉毛にはまだ火山灰がこびりつき頬にはやけどが生々しい」という従業員からの「真っ赤な火の雨がじゃんじゃん降るなかを夢中で逃げた」「頂上直下の事務所のふとんが1キロ先の草千里まで飛ばされていた」などの生々しいインタビューを載せている。
2か月前の4月中旬には天皇皇后両陛下が火口をご覧になったばかり。そのときはきわめておだやかな状態だったから関係者は胸をなでおろした。余談ながら昭和天皇が「陛下あのあたりが阿蘇山でございます」の説明に「あーっそう」と答えられたというのは1949=昭和24年5月26日に雲仙・仁田峠からだとか。