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“6月25日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1884=明治17年  日本鉄道会社による東京―高崎間の鉄道開通式が上野駅で行われた。

日本鉄道会社は2年前から川口―熊谷間で工事を進め東京府から上野寛永寺の跡地110ヘクタールの払い下げを受けて上野駅の駅舎も完成した。工事用と合わせ計3両の機関車がイギリスから輸入され浜離宮そばにあった官設新橋工場で組み立てられるとはしけに乗せて隅田川から荒川を遡り川口付近で陸揚げされた。工事用の機関車のほうは無事運び込まれたが営業用の1両は到着する寸前にはしけが沈没、近くの善光寺の檀家が総出で引き揚げたのに感謝して「善光號」と名付けられた。

はじめ開通式は5月1日に予定され天皇以下政府高官が初列車に乗って高崎まで往復することになっていた。ところが自由民権運動の高まりとなる「群馬事件」が勃発してこの列車を本庄駅付近で襲撃するという不穏な情報が流れて急遽中止となった。『自由新聞』は
「本日、日本鉄道会社にて開通式を施行するに付、聖上(天皇)には御臨幸さるる筈なりしが御風気(=風邪)に依り御延引遊ばされ、来る五日に御臨幸遊ばさる旨更に仰出されたり」と報道した。なにごとにも<表と裏>がありますなあ。<陛下がお風邪気味なら仕方ない>ということにした。その5日も万一に備えて再延期され事件鎮圧後にようやく本番を迎えた。会場の上野駅には白熱電灯24個が点灯され、式典を済ませると8時ちょうどに大歓声に見送られて出発し正午に無事高崎着。午後3時にふたたび高崎を出発し午後7時に上野駅に帰着した。片道4時間かかったわけで各駅停車でも片道1時間40分ほどだからいまからすると隔世の感がある。

それはともかく沿線もだが駅周辺は身動きできない人波で埋まった。わざわざ点灯された白熱電灯は銀座などに登場したアーク灯だったから電気代も高かった。当然、汽車が出発したらすぐに消し、到着直前にまた点灯したはず。配電会社の東京電燈ができるのはこの2年後だから、物見高い見物客のお目当ては天皇行幸もさることながら汽車や新築の上野駅とこの白熱電球にもあった。

*1956=昭和31年  筝曲家・宮城道雄が東海道線の夜行急行「銀河」から転落して亡くなった。

大阪での演奏会に向かう途中で刈谷駅=愛知県付近を走行中のできごとだった。
琴の「おさらい」を頼んだことがきっかけで知り合った作家の内田百閒は「検校」と呼んで琴そっちのけで冗談を言いながら酒食を楽しむ仲になった。
ある日、朝から晩まで琴の稽古の音が近所にうるさいだろうと心配する宮城に冗談好きの百閒
「隣との板壁にむしろをいっぱい打ちつけてぶら下げておくとよろしい」。
「それでどうなりますか」と宮城
「そうすると、お稽古の音がむしろにぶつかります。それを夕方稽古が済んだあとでむしろを外してはたくと1日じゅう溜まっていた音がみんな落ちますからそれを掃き寄せて捨てればよろしい」
と真面目くさって話すと宮城は「本当かと思いました」と笑いながら瞼の上をこすった。
宮城も負けてはいない。当時、はじめて登場した夜行急行「銀河」はたいへんな評判になっていた。ひと足早くその「銀河」に乗ってきた話を宮城が
「戦争中、方々へ出かけた時の列車に比べると大変乗り心地がよろしい」
「自分には見えないが、一緒に乗った人の話に<銀河>の最後部には天の川をあしらった中に<銀河>という字を浮かした列車標識が美しい電気で暗い中に輝き、実に綺麗だそうです。そういう列車に乗っているだけでいい気持ちでした」
と付け加えた。それを聞くと汽車旅好きの百閒はもううずうずしてきた。
さっそく次の『春光山陽特別阿房列車』の旅にはその「銀河」で出かける計画にして東京駅での出発前に検校に教わった「銀河」の標識を見に行く。「つばめ」や「はと」のは珍しくもないが夜汽車の尻に電気を供した標識はまだ見たことがないから同行の山系君らと人ごみをかき分けてようやく最後尾まで行ってみた。
「最後部は三等車である。この長い列車の尻が、蛍の様に光っているとばかり思って、一番うしろへ廻って見たら、そんな物は何もない。真っ暗なお尻であった」。
「ないね」。見事に一杯食わされたのである。

遭難現場近くにできた供養塔を二周忌の前にようやくお参りを果たした百閒は、随筆『東海道刈谷驛』に宮城の手が暖かかったという思い出などを綴っている。
「若い時に八犬伝を読み寝てからも読み続ける時は点字の紙を布団の中へ入れて、おなかに乗せて撫でればいい。寒い冬でも手の先が冷えると云う心配はありませんねと自慢した」「死神が宮城を無理やり連れていった」とか「死神が・・・」と連ねたその最後を
「宮城の遭難を昔の昔の事とした気持ちで、線路際の供養塔のある場所にお縁日の様になればいいと思う。いろんな露天が並んだり見世物が掛かったりする事を想像する。しかしお縁日にお詣りすれば、何かちゃんとした御利益がなければならない。どう云う御利益を授ける可きか、私も考えて見るが、御本尊の宮城はもう忙しくないだろうからとっくり考えておきなさい」と結んでいる。

「いまも命日の6月25日には慰霊塔の前で<浜木綿忌>が営まれて多くの方がお参りされますが縁日はないようです」と百閒に報告したら「そうか知ら」なんていうかも。

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