“7月8日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1921年 イラクのバスラで58.8度の世界最高気温を記録した。
日本の最高気温は2007=平成19年8月16日に熊谷市(埼玉)と多治見市(岐阜)で同時更新された40.9度だが、地球温暖化の影響でまだまだ更新の可能性が高い。世界記録のほうは第2位が1913年にアメリカのカリフォルニア州デスバレーで記録された56.7度でまだ差はあるがどうだろう。
バスラは首都バグダードの東南545キロにあるイラク第2の都市で人口は105万人。ペルシャ湾からシャトル・アラブ川を55キロさかのぼった港湾都市だ。石油製品やメソポタミア南部で生産された穀物やナツメヤシの積み出し港。第一次世界大戦ではイギリスに占領されて中近東への補給基地として整備され「中東のベニス」と呼ばれた。その後のイラン・イラク戦争(1980―88)や湾岸戦争(1990―91)では「炎上するバスラの石油コンビナート」みたいなテレビ映像をいやというほど見せられたので炎暑と炎上が重なって<世界一暑い都市>というイメージが固定されてしまった気がする。
6月から8月の平均気温が38度以上で、雨はほとんど降らないと聞けばそんなところで暮らすのは大丈夫なのと思うが、商用で何度も出張した知人の商社マンによると「別に外を歩いたりするわけじゃないからどうということはないよ。オフィスやホテルもエアコンが効いて快適だし」と。そう言われて「バスラのアリはあまりに暑いので砂糖ではなく塩分補給に塩をなめるってホント?」という愚問は聞きそびれた。
*1783=天明3年 浅間山が大噴火をおこした。
4月から続いた火山活動は地震や降灰を繰り返しながら6日には遠く八丈島まで爆発音が響いた。7日には頂上北側に広がる六里ヶ原が火砕流で全焼したが民家はなかったのでこれを最後に噴火は納まるかと思われた。明けて8日は好天で、山の南側の軽井沢方面では前日までの噴火であわてた住民が相次いで避難するなどごったがえしたが、北側の鎌原宿の人々は焼石(火山弾)に備えていったん持ち出した家財道具を土蔵に戻し、昼寝などをして過ごしていた。しかしこの油断が悲劇を大きくした。
午前11時、前日の火砕流を大きく上回る数百年に一度という「熱泥流」が襲いかかった。文字通り熱せられた地下水と火砕流が入り混じった高温の泥流で、六里ヶ原の土砂や岩石を巻き込んで山麓の12キロを一気に駆け下った。足の弱い老人たちは遠くには逃げられないと覚悟を決めて近くの高台に避難したが、若者たちはさらに高い場所をめざして走っているところを熱泥流に追いつかれてのみ込まれた。その様子を「ヒッシオ、ヒッシオ、ワチワチという異様な音を響かせて鎌原村へ押し寄せてきた」と無量院住職の手記に残る。老人たちも全員が助かったわけではない。観音堂がある高台までは数十段の石段があったが最上部の15段を残して埋まった。
天めいの生死をわけた十五だん
登りきって助かったもの、あと数歩およばず泥流にのまれたもの、生と死の運命を分けた石段の脇には句を刻んだ石の板碑が残る。
被害は鎌原のみにとどまらなかった。熱泥流はさらに吾妻川まで一気に下り、川沿いの村々を押し流して、氾濫を起こした下流の利根川流域を含め、直接の死者だけで1,151人、流失家屋1,061戸、焼失・倒壊181戸に上った。上流の渋川では7日間にわたって流れてきた溶岩でたばこに火がついたという記録や、はるか江戸にまでおびただしい人馬の死骸や材木、などが流れ着いた。噴火で広範囲に降った火山灰や白昼を暗夜に変えたといわれる日照不足が農作物の不作を引き起こし、長く続く天明の大飢饉の始まりになった。
*1497年 ヴァスコ・ダ・ガマがインドをめざしてポルトガルのリスボンを出港した。
国王マヌエル1世からインド航路開拓の命を受けた航海で、自身が旗艦「サン・ガブリエル」を指揮、兄パウロ・ダ・ガマの「サン・ラファエル」など計4隻に170人の水夫と12人の死刑囚を乗船させた。彼らは途中で上陸する際に最も危険な<偵察任務>をさせるのが目的だった。カナリア諸島を過ぎ、アフリカ西端のヴェルデ岬をかすめると大西洋の真ん中を一気に南下した。ギニア湾岸の凪ぎや逆風を避けるためで、喜望峰までの海況はすでによく知られていたからだ。
何度も嵐に遭いながらもようやく喜望峰にたどり着いたが問題は「そこから先」にあった。水夫たちは未知の海を怖がり、航海長と水先案内は引き返すことを強硬に主張して反乱を起こしそうだったので縛り上げて「私は求めるものを手に入れるまでは決してリスボンには戻らない」と宣言した。
この先は後日、あらためて紹介しよう。皆さんがお持ちの<ヴァスコ・ダ・ガマ像>ではない別の顔が紹介できるはずだから。彼は3度目の航海でクリスマスイヴの12月24日というめでたい日に呪われたようにインド・ゴアでマラリアにかかって死んだ。