“7月13日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1808=文化5年 間宮林蔵が早朝に北海道・宗谷岬を船出した。
目的地は北蝦夷・樺太=サハリンで約60キロの宗谷海峡を渡り南端のアニバ岬をめざした。当時、清朝の満州人は樺太をサガリヤン・ウラ・アンガ・ハタ=サガレン川の河口の向こうにある島、と呼んでいた。サガレン川は大河アムール川のこと。西洋人はそれを略してサハリンと呼んだ。ところが冬は長く厚い氷に覆われる<地図の未確定地域>で、それが日本側でいう北蝦夷=樺太と同じなのか別なのかが議論されていた。宗谷海峡も林子平の『三国通覧図説』(1785=天明5年)には「此間大難所舟不通」と書かれている。
前年4月、松前奉行から調査を命じられた松田伝十郎に従い林蔵は樺太に渡った。岬の付け根にある集落・シラヌシで二人は別れ、伝十郎は西海岸を林蔵は東海岸を北上した。途中で再び合流して西海岸をのちに林蔵を記念して「間宮海峡」と名付けられる地峡手前のラッカまで達して引き返した。このときに林蔵が書いた報告書で松前藩は「樺太は島らしい」と認識したが林蔵自身は自分で残りの地勢をさらに調べたいという強い思いがあった。そこで同時に<空白部>を埋める再検分を願い出て許しを得た。宗谷にはわずか20日滞在しただけで再び北へ向かった。
林蔵の『東韃地方紀行』の冒頭は宗谷海峡の渡海に始まる。
「7月13日、本蝦夷地(北海道)ソウヤを出帆してその日シラヌシに至る。ここ土着の住夷多からざれば従行の夷をやとふ事あたはず。夷船の奥地に趣く(=赴く)者あるを待ち、とかくして日数三日逗留し、同十七日夷船に乗り組みここを発し、日数五日を経て、同二十三日トンナイに至る」
林蔵の行程は順調にはかどっているように見えるかもしれないが、現地案内のアイヌ人を雇うのにはたいへん苦労している。前回雇ったアイヌ人が奥地の住民は乱暴でひどい目に遭ったとさんざん言いふらしたためだ。しかし8日がかりでようやく6人のガイド兼従者を雇うことができた。彼らは事あるごとに怖気づく。そのたびに林蔵は<酒など与へ色々の恵辞などを吐きてその心を慰め>なければならなかった。
*1932=昭和7年 小唄勝太郎の『島の娘』が放送禁止になった。
「ハアー」から歌い出す<ハアー小唄>の草分けで一世を風靡した。
ハアー 島で育てば
娘十六 恋ごころ
人目しのんで
主(ぬし)と一夜の 仇(あだ)なさけ
どこがまずいのかと作詞の長田幹彦がお伺いを立てたところ、「人目しのんで 主と一夜の 仇なさけ」に地元・大島から「良俗を害する」と横やりが入ったという。そこでしかたなく「娘十六 紅だすき 咲いた仇花 風だより」に改作してようやくOKに。
放送禁止といえばこの3年前にも西条八十作詞・中山晋平作曲の『東京行進曲』が問題にされた。
こちらは4番の歌詞
シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょか
のところである。
理由を聞いた新聞記者に係官は「ジャズそのものは差し支えないが、歌詞がどうも不穏当なので、ついに禁止することにした。映画ならわざわざ見にゆくのだから仕方ないが、ラジオは何も知らぬ若い子女の耳に入ってくる。浅草で逢いびきして、小田急で駆け落ちするような文句は困る」と。
小田急電鉄が小田原―新宿間を開業したのは1927=昭和2年4月。では<駆け落ち電車>とからかわれた小田急サイドはどう反応したかというと「鉄道と沿線発展のために東京行進曲のレコードを買い込んでいると聞く」と左翼雑誌『文藝戦線』にあるからちゃっかりPRを狙った“便乗派”だったようである。歌詞は
代わる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る
と続く。この歌が日本ビクターから発売された1929=昭和4年5月の新宿には東口に「ほていやデパート」西口追分ビルに松屋があった。伊勢丹はまだ神田にあった時代だ。三越は伊勢丹の新宿進出を迎え撃つためにいまの伊勢丹の前にあったバラックの「三越新宿マーケット」を取り壊して地上8階地下3階の当時では<高層ビル>を建設中だった。
八十は当時、まだ工事中だった三越を<伸びゆく新宿の象徴>として歌い込んだのではあるまいか。