“7月15日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1913=大正2年 宝塚歌劇団の前身となる「宝塚唱歌隊」が誕生した。
宝塚温泉の集客を図るため箕面電鉄(現・阪急電鉄)が三越少年音楽隊などを手本にして結成した。第1期生は25人で平均年齢は12歳。尋常小学校を卒業したばかりの少女たちの日給が25銭だったから<月給換算>では大卒者と同じ高給になるとして大きな話題になった。12月に「宝塚少女歌劇養成会」に改称して翌年4月から宝塚新温泉で行われていた婚礼博覧会の余興のひとつとして無料の2ヶ月間のロングラン公演を行った。室内水泳場のプール部分を床張りにし、脱衣所を舞台に改造して<パラダイス小劇場>に仕上げた。
演目は桃太郎を題材にした歌劇「ドンブラコ」、和風オペレッタ「浮れ達磨」、ダンス「胡蝶の舞」や合唱など。直前の12日間は本番通りの衣装で稽古を重ね、出来の悪い日には<居残り特訓>を課すなどの努力の甲斐あって「可愛らしくて嫌味がない」と予想外の人気を博した。
主役の桃太郎を演じた高峰妙子はのちに宝塚歌劇団1期生となり初公演のスター=男役第一号になっている。
*1695=元禄8年 「鉈彫り円空」として生涯に仏像12万体を刻んだ円空が入寂した。
美濃国関池尻の弥勒寺の境内には僧たちがあげる読経に混じって近在から集まった人々の嘆き悲しむひときわ高い泣き声が聞こえた。中央にはちょっとした盛り土があり真ん中に太目の竹棒が立ててある。きのうまでは途切れ途切れではあったがこの中からは鐘の音と読経が続いていたがこの日の朝に絶えてしまった。
円空が1632=寛永9年生まれであることは50歳のときの大般若経の奥書からの<逆算>で判明しているが生誕地については諸説ある。幼いころ寺に預けられて育ち、23歳で寺を出て伊吹山修験の大平寺で修行中に木彫りの手ほどきを受けた。その後は山岳修験の行者として仏像を刻みながら修行を重ね、各地を遍歴した。その足跡は中部地方だけでなく北海道、東北から関東、近畿におよび、木曽の御嶽山や乗鞍岳などにも登った。刻んだ仏像はいまも5千体以上が残る。
59歳の1690=元禄3年に飛騨にあった金木戸観音堂(岐阜県高山市)で刻んだ10万体目の十一面観音像の背中には乗鞍嶽=岳をはじめ、伊応嶽=焼岳、保多迦嶽=穂高岳などの山名が刻まれている。円空は当初、十万体を刻むことを発願したがそれを名山の山頂に祀っただけでなく社寺に奉納した。仏を刻むことで自身が<仏果>を得るのではなく拝んでもらうことで仏との縁を結んでもらおうと願った。衣食はすべて万人の喜捨に頼って窟(いわや)などで野宿を重ね自らは「乞食沙門(こつじきしゃもん)」と名乗った。円空の作が喜怒哀楽をたたえた慈味豊かな表情を持つのは人柄の反映でもあろう。即興で彫るため一体ずつ表情が違うだけでなく仏像の<形式>にはとらわれない自由さがある。経を唱えながら鉈で削りノミで仕上げる一心不乱の姿に人々は畏敬の念と親しみをもち「円空さん」とか「窟上人」と呼んでわれさきに施しをしたという。
64歳になった円空はいよいよと悟り、弟子の円長に<血脈>を授けると境内の一角に信者らに穴を掘らせた。「地中で鐘を鳴らすが、その音が絶えたときは入寂のしるしである」と遺言すると穴に入った。人々は泣きながら穴に蓋をして中央に空気抜きの竹筒を差し込み、上から土をかぶせた。わずか数日前のできごとで鐘の音は日ごとに弱くなった。
弥勒寺は岐阜県関市の長良川沿いに現存している。飛鳥時代には七堂伽藍をそなえた大寺院で周辺には郡役所などもあったが円空の時代にはすっかり寂れて廃寺寸前だった。円空はここを近江国三井寺の末寺とすることで再興を果たした。数百体あったという仏像や円空の画像は残念ながら大正時代の火事で4体を残して焼失し、円空が境内のどのあたりに眠っているのかは不明という。
まあ、そんなことはどうでもいいように思える。円空上人「それでいいのじゃよ」と呵々大笑しているか。
*1935=昭和10年 東海道本線の特急「富士」に<お風呂列車>が登場した。
風呂といっても蒸気機関の熱を利用したシャワーで、当時の鉄道大臣の発案から1・2等の乗客サービスとして荷物車を2千円もかけて改造した。機関車のお湯をチューブで引き、10銭硬貨を3枚入れると10分間程度お湯が出る仕組み。小さな石鹸がつき、服や荷物はボーイが見張っていてくれるという<至れり尽くせりの設備と新サービス>であると大臣は自信満々だったが、当時の人々はシャワーなるものをまったく知らなかったから利用客は皆無だった。
「富士」は東京―下関間の運行で多くの機関区にまたがっており、機関車の入れ替えや乗務員の交代もあるから彼らにとっても熱源を機関車から取るというのもまったく面倒な話。利用者も増えず、資金回収どころか大赤字の結果となりわずか2カ月後にお蔵入りに。