“7月16日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1959=昭和34年 赤道近く、アラビア半島南端にある港湾都市アデンにこの日、雪が降った。
当時はイエメン人民共和国=南イエメンの首都で北緯12度48分、紅海とインド洋を結ぶアデン湾の北岸にある。熱砂のアラビア砂漠に向けてインド洋から湿った熱風が吹きつけるため年間を通じて気温は高く、1月でも平均気温は25.5度、7月は32.2度だから外電は「史上初めての雪」と伝えた。降ったのは「北方の山に」とある。南北イエメンは1990=平成2年に併合されるが3,000mを超えるレマ山(3,267m)は<北>にありアデンからはまったく見えない。ニュースに驚きを隠せなかった気象庁技官でのちに函館海洋気象台長になった大野義輝は、「本当の雪であったかどうかはうたがわしいとしても、戦後異常と思えるほど続いた暖冬もこれを契機として寒冬に変わってゆくのではないかという点で、わたしの心をゆさぶった」と『お天気歳時記』(1977、雪華社)に書き残した。
*1920=大正9年 阪急電車の神戸本線(30.3キロ)が開通した。
大阪・梅田―神戸・上筒井を40分で結んだがこのときの新聞広告が「奇麗で早うて、ガラアキ、眺めの素敵によい涼しい電車」で当時、専務だった小林一三が考えた。先発の阪神電車は大阪・神戸間のにぎやかな街をつなぐ海岸寄りを走っていたが後発の阪急は立ち退きやその他の障害がほとんどない六甲山の山裾を走ることになった。しかも最短距離で結んだから早い、山の手で眺望も良いし、人家はまばらだから乗客も少ない。それをそのままコピーにすれば広告コピーの通りになるが堂々と<ガラアキ>とうたったところがすごい。
前日の報道関係者向け試運転電車に乗った大阪毎日新聞の記者は「お百姓の為に出来た電車といっては可笑しいが山に近く海に遠く、芦屋あたりに行くと電車は緑の中に入って蝉の声が左右の窓から流れ込む。それだけに車中には棒の様な風が筒抜けに吹き込んで納涼には持って来い」と報じた。<棒の様な風>もコピーに負けてはいませんなあ。
眺望の良さではずっと後になるが1936=昭和11年10月29日に大阪湾で行われた帝国海軍の観艦式で生かされた。芦屋川から岡本の区間ではスピードダウンして戦艦や巡洋艦、航空母艦など聯合艦隊の威容を見せた。うわさを聞いて梅田駅には乗客が殺到、それをさばくために宝塚線の車両まで動員し、前夜は終夜運転した。29日は本社の若手社員にも制服を着せて雑踏整理を応援させ1日だけで6万5千人を運んで阪神電車や省線(国鉄→JR)を“撃沈”させたと関係者は大喜びだったという。
*1877=明治10年 山陽鉄道・神戸駅でわが国はじめての駅弁の立ち売りが始まった。
従来の「駅弁・第1号」の<通説>は1885=明治18年に日本鉄道の宇都宮駅で「ゴマを振りかけた梅干し入りおにぎり2個にタクアンを添え、竹の皮で包んだのが5銭」というものだった。ところが駅弁などに詳しいトラベルジャーナリスト林順信が『神戸駅史』に記述があるのを見つけ『汽車辧文化史』(1978、信濃路)でそれを書き換えた。
この年は2月から10月まで西南戦争の最中で官軍の兵士たちの多くが神戸港から出征していった。神戸駅は見送りの家族らも利用して大混雑だったから駅弁需要もあったのはうなずけると。
*1959=昭和34年 新生キューバの経済使節団の一員としてチェ・ゲバラが来日した。
カーキ色の軍服にヒゲ面という“おなじみの姿”だったが当時はまだまったく無名だった。
東京都庁で当時の東知事から「東京都の鍵」を手渡され、通産省では池田勇人通産大臣にキューバ産の砂糖などを売り込もうとしたが逆に「日本の繊維をどんどん買って欲しい」といわれて貿易交渉はかみ合わず、会見はたった15分で終了した。ゲバラは東京でソニーの工場を見学、その後、名古屋、大阪を回り、来日前から訪問を切望していた広島を訪れた。原爆資料館ではそれまでは寡黙だったゲバラが「あなたたち日本人はアメリカにこれほど残虐な目にあわされて腹が立たないのか」と興奮気味に声をあげた。
通産相にしても都知事にしても「あの時のひとりがそうでしたか」という程度の記憶しかなかったが、原爆資料館を案内した広島県の職員は予想もしなかった発言があっただけにその内容と「目が実に澄んでいる人だったことが印象的で、もっとゆっくり話せたらたとえば短歌などを話題にできたのではないか、といったふうな感じでした」と『チェ・ゲバラ伝』の取材をした直木賞作家の三好徹に語っている。
帰国後、工業相になるがキューバ革命を共に戦ったカストロと袂を分かち、南米ボリビアに飛んでゲリラ戦革命に身を投じる生き方を選んだ。統治者より行動する革命家でありたい。この選択で広島の惨禍のすさまじさへの同情と怒りを見せた彼の感情の置きどころをのぞく気がする。それが彼流のロマンチシズムからなのかあるいは冷静な分析だったかは別にして<純な心>の持ち主だったのは間違いない。