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“7月19日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1943=昭和18年  日本旅行倶楽部の事業休止で雑誌『旅』は8月号で終刊に追い込まれた。

旅行雑誌の『旅』は雑誌・新聞の統廃合や検閲強化、用紙統制が進むなかで鉄道省の傘下にあった日本旅行倶楽部が出版していたから比較的融通はきいてはいたが組織自体が休止になってはやむを得なかった。スタートは1924=大正13年に日本旅行文化協会の会員向け機関誌としてささやかに始まった。版元がジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)に変わると表紙も一新され、モノクロではあったがアート紙を使った16ページの写真ページが加わるなどビジュアルになった。

挿絵は人気漫画家の田河水泡が。執筆陣も井伏鱒二、武者小路実篤、内田百閒、室生犀星、石坂洋次郎、林芙美子、岡村かの子が並ぶ。俳人の河東碧梧桐、荻原井泉水、登山家の今西錦司、深田久弥、植物学者の牧野富太郎、星座研究家の野尻抱影、政治家では鳩山一郎がゴルフ談議を寄せるなど執筆陣も多彩だった。温泉や小旅行だけでなくハイキングや登山、海外旅行まで幅広く紹介、旅そのものだけでなく<旅行文化>を育てる人気雑誌になった。鉄道記者クラブに出入りする敏腕記者も紙面づくりや原稿執筆に腕をふるった。

しかし1937=昭和12年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に突入すると世は挙げて重苦しい戦時色へと傾いていく。検閲がだんだん厳しくなる。新入りの編集部員で、のちに紀行作家として活躍する戸塚文子は当時、検閲を受ける苦労を「陸軍、海軍、憲兵隊・・・と、前後合わせて12回頭を下げなければならなかった」と述懐している。それでもバックに鉄道省があったから何とか息をつないできたが、第二次世界大戦が始まると旅行や鉄道の旅が紹介できたのも「鉄道開通七十年」(昭和17年10月号)あたりまで。雑誌を取り巻く諸情勢は厳しくなる。鉄道省そのものも一気に戦時体制へと進むなか、それまでの「どんどん旅行しましょう。乗ってください」から「不要不急の旅行は最小限に」の時代になり昭和18年5月号からは<旅行指導雑誌>への衣替えを余儀なくされていた。

最終刊となった8月号の表紙は塩田で働く上下絣のモンペ姿の女性のカラー写真。頭には手ぬぐいをかぶってにこやかな笑顔だが背景の塩田は白黒写真のまま、つまり現地へ出かけて撮影したのではなく東京都内で撮影したのが見え見えである。円形の旅の赤色ロゴの下には5月号から入った旅行指導雑誌の活字、赤色で「終刊號」と印刷されている。裏表紙は鉄道省の「戦時陸運非常体制」「重点輸送」「道を譲らう!戦力増強の<物>へ、戦時緊要の<人>へ」と活字だけの広告。見開きも日本郵船が舵のマークに「決戦の秋!使命いや重し輸送陣」、南満州鉄道は赤ん坊をチャイナ服の老婆が見守る写真だけのそれぞれの1ページ広告が埋めた。

目次のトップは戦時を反映した「指導記事」。「学徒の野外錬成」「<旅行切符制>考」に続く「警報発令下の交通機関」では
一、 昼間は警戒警報または空襲警報発令中も汽車、電車(郊外電車、市内電車、地下鉄等)バスは全部運行する。
二、 夜間は警戒警報発令中でも概ね営業時間中これ等の車輌は運行する。
三、 夜間空襲警報発令中は汽車、郊外電車、地下鉄は運行するが、市内の路面電車、バスは運行しないのを原則とする。
四、 空襲警報発令中運行するこれ等の車輌も敵機を見たり爆音や砲声を聞いたら運行を一時停止して乗客に分散退避させる。しかし状況によってそのまま運行を続けまたは停止中の車輌を直ちに発車しむる等臨機の処置を講ずることもある。

本土空襲を経験していない時期だったことを考えるとまだ“余裕”が感じられるが、巻頭の「事業休止に就いて」で「ついに1万8千人の会員を有し、文字通り日本を代表する、否!大東亜最高の旅行家の集団と相成りました當日本旅行倶楽部は、八月を以て事業全般を休止致すことに相成りました。従って機関紙として会員諸氏に御馴染みであり、一般にも旅行雑誌の最高峰として定評がありました『旅』も八月號を以て廃刊致すことに相成りました」。さらに「申す迄もなく非時代的存在としての事業の休止ではなく、同志として結ばれた会員諸氏が独自の立場に於いて倶楽部精神を強力に、そしてより積極的に生かして下さるであらうことを期待して斯くすることが倶楽部の臨戦態勢強化の最良の手段であると・・・」とやむを得ない事情を説明しているほか巻末の「旅の終刊号に寄す」などに時局への無念さがにじみ出ている。

くわしく紹介する気になったのは手元に復刊された最終号があったからだが、戦時下のこの時代、多くの雑誌が廃刊に追い込まれた。最後のあいさつなどを掲載できた『旅』はまだ幸せだったのかもしれない。はしばしに出版人のささやかな抵抗を見ることができる。

*64年  ローマの大円形競技場周辺のスラムから火の手が上がった。

狂乱の住民が逃げ惑うなか市の大半が焼き尽くされてしまった。第5代のローマ皇帝ネロは別荘から馬で視察にかけつけたが住民からは「これもやっぱりネロの仕業。どこまでわれわれを苦しめたら気に済むのだ」という怨みの声が上がった。

暴君の典型とされたネロの正式名はネロ・クラウディス・カエサル・ドルースス(54-68)という。この失火か放火かも含めこの大火の原因は結局<不明である>とされた。

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