“7月20日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1912=明治45年 明治天皇の「御不例」を報じる『官報』号外が発行された。
天皇は8年前から糖尿病を患い、その後、慢性腎臓炎を併発。7月に入ると「腸胃症」にかかり嗜眠・恍惚の傾向がみられ、尿毒症と診断されたと伝えた。「腸胃症」とは消化機能不全で自力では食事による消化吸収、栄養摂取が出来なくなったという“最終症状”のことだからこの報に東京株式市場は大暴落して<恐怖狼売(狽)>といわれた。
*1908=明治41年 「大阪市街電車唱歌」が売り出された。
1部4銭。作詞は「鉄道唱歌」で人気を博した大和田建樹で、作曲は童謡「きんたろう」や「はなさかじじい」を手がけた田村虎蔵が担当した。
一. 春咲く花の梅田より 二. ここは公園名も高く
乗り出す電車心地よく 土佐堀、江戸堀打ち渡り
曽根崎新地打ち過ぎて 京町橋の東には
行くや堂島、中の島 夜店繁華の御霊あり
三.靭の東に北御堂 四. 新町過ぎて四橋の
阿波座の東に南御堂 風景一目に見え渡る
何れも参詣数多き 線路もここは交差点
一向宗の掛所なり 水は十字に流れたり
五.それより東に佐野屋橋
心斎橋を眺めつつ
末吉橋まで行く道の
落成見るも遠からじ
梅田を起点に市内各所を<走り抜け>大阪港のある天保山まで全21番。さすが「水都・大阪」という感じで、堂島、中の島、土佐堀、江戸堀や橋の名前が多く登場する。
田村はその3年前の1905=明治38年に発表された「電車唱歌」の通称で呼ばれる「東京地理教育・電車唱歌」を作曲しているがこちらの作詞は石原和三郎だった。
一. 玉の宮居は丸の内 二. 左に宮城おがみつつ
近き日比谷に集まれる 東京府庁を右に見て
電車の道は十文字 馬場先門や和田倉門
まず上野へと遊ばんか 大手町には内務省
三. 渡るも早し神田橋
錦町より小川町
乗りかええしげき須田町や
昌平橋をわたりゆく
と<ついでに>紹介する。発売当時は東京電車鉄道=東鉄、東京市街鉄道=街鉄、東京電気鉄道=外堀の3社が合併、1911=明治44年には市営化で東京市電になったこともあり全部で52番まであった。当時の山手線は新橋―上野間がまだできておらず東京駅はなかったからこの間を結ぶ意味でも市電は<花形交通機関>だった。一番が丸の内から、というのはこのためだ。
大和田・田村コンビでは1908=明治41年に「阪神電車唱歌」が作られた。大阪・梅田を起点に神戸・滝町まで全22番ある。
大阪城の松よりも
栄えは尽きぬ大阪市
めぐる電車を乗り換えて
出で立つ梅田の停車場
これに負けじと阪急電車の前身、箕面有馬電気軌道専務の小林一三も2年後の1910=明治43年に「箕面有馬電車唱歌」を作らせている。
東風(こち)ふく春に魁(さきが)けて
開く梅田の東口
行きかう汽車を下に見て
北野に渡る跨線橋
こちらはスピードが売り物の路線だけに全15番だったが作者不明。歌い出しも格調高く、跨線橋だからとはいえ「行きかう汽車を下に見て」とあったりするから、作詞はひょっとしたら小林自身かも。鉄道唱歌にしても電車唱歌にしても庶民には歌いやすい五七調だったから大いにはやった。紙数が尽きそうなので関西の私鉄のほうは一番だけを紹介する。