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“7月31日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1954年  イタリア登山隊が世界第二の高峰K2(8,611m)に登頂した。

初登頂に賭けるイタリアは全土からベスト・クライマーを慎重に選んだ。なかにはアルプスで技術的にも困難な多くの初登攀を行っていた24歳のワルテル・ボナッティもいた。南東稜にとりつく初めの段階こそ悪天候に悩まされたが強力なチームは高度7,320mの第七キャンプを設営した。ところがここでボナッティら6人は原因不明の食中毒に襲われ下山を余儀なくされる。頂上アタック隊員には別の2名、アキーレ・カンパニョーニとリノ・ラチェデリが選ばれた。

2日後の30日、完全に体力を回復したボナッティはもう一人の隊員と第八キャンプ(7,626m)まで登るが今度は酸素ボンベが底をつきそうなことが分かる。置き場まで取りに戻る役を引き受けたボナッティは高所ポーターと第九キャンプ(8,060m)まで運び上げようとしたがその手前で日没となってしまう。しかもポーターがパニックを起こしたためそのままテントなしで朝を迎えることに。危険すぎる高所ビバーグ=不時露営だった。

翌朝、ボナッティとポーターは軽い凍傷にかかってはいたがまだ<生きて>いた。彼らは第八キャンプで登頂を果たしたカンパニョーニとラチェデリに合流し、酸素ボンベを分け合うことで無事下山した。遠征隊が本国へ帰国したときにマスメディアだけでなく登山界が称賛を寄せたのは当然ながら登頂したカンパニョーニとラチェデリに、だった。

あえて悲運に見舞われたボナッティのことを取り上げた。彼が最終アタックメンバーから外れたのは実力・力量への妬みから仕掛けられたものだった可能性が高い。駆け引き以上のものもあったろう。彼はその後の長い鬱状態を脱し、翌年1955年8月スイス・シャモニーにそびえるドリュの南西岩稜を6日間がかりで、しかも不可能と言われた単独で登攀することに成功した。その後は幾つかの登山隊で活躍するが最後は1965年に厳冬期のマッターホルン北壁の単独登攀を新ルートから登り、自身の冒険登攀に区切りをつけた。

決して一匹狼でも人間嫌いだったわけではないのに孤独な挑戦を選んだのはヒマラヤでの挫折があったからとされる。2011年9月13日、膵臓がんのため逝去、81歳。

*1959=昭和34年  東海道線の「こだま」が時速163キロの狭軌世界新記録を樹立した。

「こだま」は前年の1958=昭和33年に東京―大阪間の日帰り可能な<ビジネス特急>として新設された。5月4日に完成予想図が新聞発表され愛称募集が行われると9万3千通もの応募が殺到したため6月上旬の発表を月末まで延長することになった。そうした人気を背景にしたスピードへの挑戦で当時の国鉄の技術力が試されたわけだ。

狭軌は線路の幅が標準軌道=1.435mに対し<狭い>という意味で、幅は1.067mである。そのため速度を出すには軌道はもとより車両にもさまざまな精度が求められる。しかも速度試験が行われた金谷―焼津間はほぼ直線とはいえ1キロちょっとしかない。この成功で一部のダイヤの変更にはつながったが「こだま」は1964=昭和39年10月1日の東海道新幹線開業で、9月30日をもって廃止され、新幹線の列車名として引き継がれた。

もちろん「こだま」は木霊=山彦のことだが寄せられた愛称のトップは5,957票の「はやぶさ」で「平和」が1,076票「さくら」が692票だった。変ったところでは日帰りなら出張先での浮気を防げるからとして「愛妻」というのもあったとか。374票の「こだま」が選ばれたのは東京と大阪を<1日で往復できる>ことをPRしたい国鉄側の思惑があったか。

*1951=昭和26年  わが国初の民間航空として日本航空が旗揚げした。

もっとも自前の飛行機はなく任されたのは「営業面」だけで運行はすべて外国の航空会社を使うことが条件とされた。その交渉は難航を重ね、ようやくノースウエスト航空との間でチャーター契約がまとまった。東京―大阪に一番機の「もく星号」が飛んだのは10月25日だった。

当時のダイヤは東京―大阪が1日3往復、東京―札幌と東京―大阪―福岡が各1往復で、運賃は東京―大阪6,000円、東京―札幌10,200円、東京―福岡11,520円、大阪―福岡5,520円でほぼ国鉄の一等料金並みに設定された。

*1942=昭和17年  京都製氷組合が贅沢な氷の製造を止めるように決定した。

戦争の激化での「贅沢は敵だ」という流れの中で組合としては苦渋の選択だったが夏の盛りの発表は市民を驚かせた。製氷業者としては担い手や配達要員を徴兵で戦争に取られていたこともあったろうが「夏に氷屋が氷を作らなくなった」ことで戦争が深刻な局面に来ていることを感じさせるには十分だった。それでも一部の小売業者は氷と薪炭商を兼業していたものの夏は氷、冬は薪炭と売れ筋が決まっていたこともあって夏の売れ筋の氷が入らなくなったことで休業に追い込まれた。

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