“8月3日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1918=大正7年 富山県西水橋町(現・富山市)で米寄こせの「女一揆」が起きた。
漁民の妻ら300人が高騰する米価に耐えかねて、資産家の家や米屋に押し掛け「このままでは餓死する」と訴えた。「かかさんら出んか出んか」の呼び出しが町内を駆け巡った。
きっかけは前月23日に魚津漁港から北海道向けの米が積み出されるのを漁師の妻らが阻止する行動に出たのがはじまりとされる。周辺の東岩瀬町や泊町でも同じような抗議行動が広がり新聞は「越中女房一揆」などと書き立てた。大戦景気で一方では<成金>が続出するなかで民衆は物価高による生活難に苦しんでいた。これにシベリア出兵による米穀商らの投機買いが拍車をかけた。
開戦時の一石16円80銭が10日後にはほぼ3倍の46円30銭に暴騰した。新聞報道で騒動は全国に広がり10日には京都と名古屋で大規模な暴動に発展、警官や軍隊が出動して全国で約8千人が逮捕された。死者も30人に上り逮捕された2人が死刑、12人が無期懲役になった。社会問題の高まりで寺内内閣は9月21日に総辞職に追い込まれた。
*1954年=昭和26年 歌人・中城ふみ子が入院中の札幌医大病院で乳がんのため死去した。
北海道・帯広生まれ、東京家政学院を卒業後、国鉄勤務の夫と結婚し3男1女に恵まれるが離婚した。中城は結婚後の姓。死の2年前に最初の手術で左乳房を切除したがその後がんが再発、右乳房も切除した。闘病と恋愛をテーマにした大胆な表現が攻撃されながらも多くの女性歌人に支持され先駆的存在として影響を与え戦後を代表する女性歌人のひとりだった。
灼きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ
無き筈の乳房いたむとかなしめる夜々もあやめのふくらみやまず
失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ
音高く夜空に花火うち開きわれは隈なく襲はれてゐる
冷えしきる骸の唇にはさまれしガーゼの白き死を記憶する
病床で『乳房喪失』(作品社)の見本刷りを校正していたが肉親らに見守られて息を引き取った。当日は蒸し暑い無風の日で「死にたくない!」の一語が絶句となった。31歳。
生前、病室を訪れて取材した時事新報記者・若月彰によって死の翌年に評伝『乳房よ永遠なれ』(1955、第二書房)が10万部を売るベストセラーになった。日活がこの評伝を原作とする同名の映画を製作、田中絹代が監督、月丘夢路が主演したことでふみ子の名は広く知られることになった。
*1858年 アフリカ白ナイルの水源の探検隊がビクトリア湖を発見した。
当時のアフリカは正確な地図が出来ていなかったこともあって知られざる大陸という意味で「暗黒大陸」と呼ばれていた。もっともこれは進歩していると思う側の一方的な発想だから<未知の大陸>と言い直しておく。地図を眺めてもらうとわかりやすいがナイル川はスーダンの首都のハルツームで合流する。東のほう、エチオピアから流れてくるのが青ナイル、反対に南のほうの<どこか>から流れてくるのが白ナイルである。
青ナイルのほうはひと足早く、1768年から5年がかりでスコットランド人のジェームズ・ブルースが水源地帯を踏査していたが白ナイルのほうはいまだ手つかずのままだった。抜擢されたのはアラビア半島の探検で実績のあったリチャード・フランシス・バートンとジョン・ハンニング・スピークで東海岸のザンジバル島の対岸のバガモヨからタンガニーカ湖畔のウジジに達した。ここでバートンが病気に倒れたので以後はスピークのみで進みこの日、ついにビクトリア湖を発見した。彼らはいったんイギリスにもどったがこの発見は王立地理学協会を大いに喜ばせた。
2年後、スピークはビクトリア湖の西岸から湖の北を踏査し湖から流れ下るリボン滝をとオカゲラ川を発見、ヨーロッパ人としては初めてウガンダの地を踏んだ。過酷な旅で荷物を運ぶクーリー=人夫の逃亡に悩まされたが現地部族の酋長からこの川に続く大きな川=白ナイルが北へ流れ下っていることを聞いた。さらに川沿いに北上したゴンドコロ(現・ジューバ)の集落で逆にスーダンからナイル川を南に辿って来たイギリス人冒険家のサムエル・ベーカー夫妻に会う。ついにナイルは<つながった>のである。彼はさらに水源の一つアルバート湖を発見し、ナイルの源流地帯のあらましをつかんだ。
現在のアフリカ地図の主要な都市には「空港マーク」が当たり前ながらあって空路で簡単に行き来できる。精緻にできあがった地図はオリンピックやサッカーなどでのアフリカ勢の国を探すことや内乱や大事故の際の位置確認に役立つが、未知の大陸だった当時の地図には大きな空白部が広がっていたわけだ。それがわずか150年ほど前だったことを考えると探検家とか冒険家といわれた人たちの空白を埋めようして命がけの旅を重ねた姿にいまさらながら頭が下がるのである。