“8月19日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1886=明治19年 清水次郎長が“正業”に就いたと新聞が報じた。
次郎長といえば天下に名を知られた「東海の大親分」、つまり<侠客>である。明治になってもまだ生きていたのかといぶかる向きもあろうからかいつまんで紹介しておく。
幕末、1820=文政3年に清水湊の船持ち船頭の次男に生まれた。母方の叔父の米穀商「甲田屋」に子がなかったため養子になる。養父が亡くなるとあとを継いだが博打と喧嘩を繰り返し、23歳の時に喧嘩の果てに相手を斬ってしまう。妻を離別して実姉夫婦に店を譲って出奔し<無宿人>になった。諸国を回って修行を重ね、清水湊に戻ると一家を構えた。富士川舟運の権益を巡っては甲州博徒・黒駒勝蔵と何度も血なまぐさい抗争を重ねた。
1868=慶応4年8月、旧幕臣で海軍副総裁・榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち「咸臨丸」は房総沖で暴風に巻き込まれ破船した。修理のため清水湊に回漕されたところを新政府海軍に見つかり交戦の末、見張りに残っていた船員全員が死亡した。そのまま<逆賊>として放置されていた死体を次郎長は小舟を出して収容し砂浜に埋葬して供養した。新政府軍からはこれを咎められたが「死者に官軍も賊軍もない」として突っぱねた。当時、静岡藩大参事だった旧幕臣の山岡鉄舟はこれを深く感謝し以後付き合いが始まる。
富士の裾野の開拓事業や横浜との蒸気船航路を立ち上げるなど顔役としての仕事が忙しくなり博打を止めていたが1884=明治17年1月に「賭博犯処分規則」が公布されると全国の博徒が次々に検挙された。自由民権運動が先鋭化し、これにアウトロー集団が結託しないとも限らないと心配した新任の静岡県令が陣頭指揮をとり旧幕臣の鉄舟らとも昵懇だった次郎長に狙いを付けると地元の清水警察ではなく静岡警察に捜査を命じた。次郎長を「参考までに話を聞きたいので警察署に御足労願いたい」として呼び出し家宅捜索に取り掛かると刀槍、銃器、賭博用具が<荷車で運ぶほど>見つかったので証拠品として差し押さえた。判決は懲罰(懲役)7年、罰金400円で静岡の井ノ宮監獄へ収監された。右腕の大政のあとを継いだ増川仙右衛門、当目岩吉らも共犯として同時に捕まった。
実刑となっては鉄舟らも手が出せない。そこで次郎長の事績を紹介することで世論に訴える作戦が考えられた。『東海遊侠伝』の出版である。校閲者に「朝野新聞」社長の成島柳北、序文は「中央新聞社」社長でのちに衆議院議長や文部大臣を歴任した大岡育造、鉄舟も表紙画と題字を寄せ、東京・與論社から出版された。無名の人物の初出版としては例のない豪華版で、次郎長入獄2カ月後の4月に出版された。政府要人や議会、大審院、諸官庁、警察関係、と中央・地方を問わず配られた。しかしすぐに釈放とはいかなかった。
鉄舟らが最も恐れたのは監獄内のリンチ。看守が目を離したすきに、あるいは見て見ぬふりをされたらどうしようもない。しかし、65歳の次郎長は規則を守り牢内では「御隠居さん」として優遇され、蚕を育てて山繭づくりを他の入所者に指導するなど模範囚だった。
都合のいいことに県令も鉄舟の幕臣時代の同志だった関口良輔に交代していた。関口は山口県令から元老院議官になっていたが関東・中部地方の地方巡察使当時に鉄舟から次郎長のことはよく聞いていた。それでもすぐにとはいかなかったが翌年9月、静岡地方に大きな地震が起きて獄舎の一部が倒壊し囚人が「一時解き放し」となった。決められた期日までに戻るというもので次郎長もそれに従った。ここで関口が動いた。中央政府と折衝して特例の道を開き、11月16日に次郎長らを同時に仮釈放することを取り付けた。出獄当日、出迎えの人波が東海道筋を幾町となく埋め、蒔絵塗りの馬車に乗せられた次郎長一家をそのまま清水の自宅前まで送った。1年8か月ぶりの帰還で、これがわが国の「仮釈放第1号」である。
そう、正業の話だった。次郎長は出所後、静養と称してぶらぶらしていたがいつまでもというわけにもいかない。正業がなければまた<テラ銭稼ぎの道>に戻らないとも限らず鉄舟と関口は相談、波止場で汽船宿兼料理屋をやるのが一番ということになった。次郎長とかみさんのお蝶に相談すると「何分にもよろしゅう、おたの申します」ということになり、自宅を処分して波止場の脇に「末広」を新築した。お蝶が店を<仕切る>ことになった。
『東京日日新聞』の見出しは「清水次郎長=正業に就く」「温泉宿を経営し利益は公共事業へ」だった。さすがに温泉は出ない場所なので朝から風呂をたてて、船乗りなどにひと風呂浴びてもらおうということだったのだろう。地元の『静岡大務新聞』は「清水次郎長が料亭開業の祝宴」として「祝宴を今23日午後、当地求友亭にて開くとの事にて、本社員も招待を受けたれば、臨席の上盛況を次号に掲載すべし」と予告している。「求友亭」はいまも静岡県庁の近くにある一流料亭である。
鉄舟は店名にちなみ、祝宴のために末広=扇子数百本に揮毫して贈った。その後、鉄舟の紹介もあって海軍士官らも愛用するようになりお蝶の人あしらいもうまかったので店は結構繁盛した。ただし次郎長自身は酒が全く飲めなかったので酔って大騒ぎをすることはできなかったという。
1888=明治21年7月19日、鉄舟53歳で没。葬儀当日は大雨にもかかわらず会葬者は5,000人にも上った。葬列の先頭には子分200人を引き連れ、ずぶ濡れで泣きながら歩く次郎長の姿があった。鉄舟あっての自分、を一番知っていたのは次郎長自身だったのだろう。