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“8月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1927年  アメリカ・ボストンの刑務所でイタリア移民の2人の男が電気椅子で処刑された。

アメリカ国内に<赤狩り旋風>が吹き荒れるなか米国裁判史上に残る最大の冤罪事件とされ、彼らの名を取って「サッコ=ヴァンゼッティ事件」と呼ばれる。

事件は1920年4月15日に発生した。ボストン郊外の製靴工場が5人組のギャングに襲撃され、会計部長とガードマンが射殺されて1万6千ドルが強奪された。翌5月5日に靴職人で36歳のニコラ・サッコと魚行商人で39歳のバルトロメオ・ヴァンゼッティが逮捕される。物的証拠は一切なく、2人は事件への関与を一貫して否認し続けたが裁判所は7月14日に死刑判決を下した。

第一次世界大戦後のアメリカでは不景気による労働紛争が激化しており、社会不安の原因をコミュニスト=共産主義者やアナーキスト=無政府主義者など過激思想の持ち主になすりつける風潮があった。とくに東部のマサチューセッツ州では州都ボストンを中心に激しい「赤狩り旋風」が吹き荒れた。逮捕された2人は日頃から労働運動にも参加するなど、思想もアナーキーなところがあり、大戦では揃って徴兵を拒否したことから危険人物としてマークされていた。つまり容疑者にちょうどいい人物として<狙い撃ち>にされた。

裁判を有利に進めようと検事が偽の目撃証人を仕立てたとか、2人の思想背景をことさら強調することで裁判長や陪審員に<予断>を抱かせたことには多くの証言がある。それ以前に裁判長や陪審員も人種的な偏見や赤狩りを容認してきた風土に染まって育ってきた。有罪判決が出た直後から審理が公正でないことに抗議する運動が起き、ボストンだけでなく全米へ、さらにヨーロッパ、全世界へと広がっていった。抗議行動には多くの知識人が参加した。ノーベル賞受賞者では詩人で小説家のアナトール・フランスやロマン・ロラン、アルバート・アインシュタインが筆頭だった。アメリカを代表する哲学者のジョン・デューイや当時のイタリア首相・ムッソリーニもいたから確定していた死刑執行はいったん延期されたものの弁護側の裁判やり直しの申し立てはことごとく却下され、当時の州知事も特赦を拒否した。

1927年4月9日、知事は形ばかりの「特別委員会」を設置した。しかし委員会は国際的な助命嘆願の採択を棄却、逆に原判決を支持したことで死刑判決が再度確定した。サッコが処刑されたのは午後0時19分、ヴァンゼッティは8分後の0時27分と記録されている。
それぞれが獄中で詳細な日記を残した。この日記をもとに1971年にはイタリア・フランスの合作映画『死刑台のメロディ』が製作された。アメリカ史に残る最大の汚点としての冤罪事件に巻き込まれた彼らの<いわれなき死刑>を告発する社会派作品で主演のリカルド・クッチョーラはカンヌ映画祭で主演男優賞を獲得した。

処刑に抗議した群衆に刑務所を襲撃されるのを警戒して警官隊がずらりと機関銃を並べ、警備陣以外は誰もいないのに終夜サーチライトが照らし続けるのがいささかオーバーで滑稽でもあり、結局襲撃は起きず、でしたけど。エンニオ・モリコーネの主題歌を反戦歌手のジョーン・バエズが歌ったのも話題になりました。

死刑執行の50年後にあたる1977年にマサチューセッツ州知事マイケル・デュカキスが、この裁判は偏見と敵意に基づいた誤りであるとして彼らの<無実>を公表し、処刑日の日、8月23日を「サッコとヴァンゼッティの日」と制定した。その後、デュカキスはジョージ・ブッシュ(第41代・父)と大統領選を争って敗れた。最初は優勢だったがブッシュ陣営が、デュカキスの死刑制度に対する考え方を繰り返し攻撃するネガティブ・キャンペーンで保守層を取り込み<大逆転>したと分析されている。それはともかく、半世紀後にしてようやく示された<アメリカの良心>ではあった。

*1289=正応2年  踊念仏を民衆に勧めた一遍が兵庫の光明福寺にある観音堂で念仏往生した。

時は鎌倉時代、一遍は伊予・松山の瀬戸内水軍の名門、河野に生まれたが一家は承久の乱に巻き込まれて没落、母の死後、武門を捨て13歳で出家した。一度は武士に戻るが再び出家、かっての妻、超一房や娘の超二房をはじめとする一行を引き連れて諸国を遊行して歩いた。やがて踊念仏をはじめると信者がさらに増え、16年にわたるその足跡は九州からみちのくにも及んだ。まだまだ全国津々浦々には念仏の教えに取り残された衆生がいるという一念が彼を動かしていたが8月はじめにこのお堂に入る頃には歩行も困難だった。

死の二週間前、わずかに残っていた経典と書きものを庭で焼かせた。
一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ
自分一代で誰にも何も残さないことを実践するかのように一切を灰にして無一物の“捨聖”となったわけである。さらに「没後の事は、わが門弟においては決して葬礼の儀式をととのうべからず。わが屍は、野に捨てて、けだものに施すべし」と。

春秋五十一年、西方浄土を望む兵庫の浜での<捨て果てて>の大往生、それでも門弟7人が入水してあとを追った。

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