“8月24日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1945=昭和20年 明治専門学校の「原爆調査団」が被爆直後の長崎に入った。
現在の国立九州工科大学の前身で北九州・戸畑にあった。当時、助教授だった藤田哲也は教員や学生らで組織された調査団の一員に加わった。被爆被害の実態調査が目的で藤田には原爆がどの高さで爆発したのかを割り出す仕事が与えられた。
当時の長崎県知事だった永野若松が被災後の第一報として西部軍管区参謀長にあてた「被害状況報告」には「炸裂せる直下地点と認めらるる銭座町、茂里町、岩川町、坂本町、浜口町、山里町、松山町、橋口町の浦上一帯の概ね二粁=キロ平方の地域は家屋殆ど全壊(倒壊後火災発生、殆ど全焼)し、尚四粁乃至六粁圏内の市内全地域の家屋は屋根瓦、窓扉、屋内建具を破壊飛散したり。これがため爆弾直下地点一帯は家屋の倒壊並に爆風による死傷者及び火熱による火傷者相当多数に上る見込みなり」と記録されている。その後は大混乱で続報を送る余裕すらなくなったようだが焼け焦げたおびただしい死体が重なり重軽症者の群れが長崎の街をさまよった。被災者らはうめき、泣き、叫びつつ救援を、肉親を、水を求めて必死にうごめく阿鼻叫喚の混乱が数日間、昼夜を分かたず続いた。
藤田らはトイレにも行けないすし詰めの列車で長崎入りした。終点の一つ手前、浦上の駅舎は消滅していて見えるのは駅員と人垣ばかりでみんなの第一声は「ものすごい」だった。駅は直下地点=グラウンド・ゼロに近く、一瞬にして吹き飛ばされたのか。それとも猛火で焼き尽くされたか。ゼロ地点では、木は直立していたがどの木も真っ黒に炭化していた。放射線でやけ、爆風で壊れた浦上天主堂の一部によじ登って、見る影もない浦上の町を眺めて写真に収めた。市街地では死体の片づけはひと通り進んではいたが周辺の山林ではいくつもの行き倒れ死体を目撃した。腐臭と焦げた臭いが街全体を覆っていた。藤田は途方に暮れた。あらゆるものが破壊され、燃え尽き、終日歩き回ったが何一つ手がかりがない。次の日は焼け残った地区を訪れて物体と放射線の影を探した。その対応点を直線で結び、空中に向かって延長すれば、その交差点が「爆心」となるはず。しかし残念なことに閃光のあと、すべての物体が爆風で動かされているので、どうしても線は一点で交わらずその日も不成功に終わった。3日目、藤田は何気なく立ち入った墓地で半月形に焼けた竹の花筒を見つけた。地中深く打ち込んであるため墓石の多くが爆風でなぎ倒されていたのに奇跡的に動いておらず忠実に爆発点の方向を教えてくれた。これをヒントに藤田は市の周辺の墓地をしらみつぶしに調べ上げ、数十本の竹の花筒に残された放射線の方向を計算した。それは1機の飛行機を照らすサーチライトの光線のように空中の1点、すなわち「地上520mの高さ」に集中した。
1976年、アメリカのオークリッジ国立研究所のジョージ・D・カー博士は長崎に原爆を投下したB-29爆撃機「ボックスカー」の軌道や速度・高度などの飛行記録を大型コンピュータで詳細に計算して爆発高度は「503mプラスマイナス10m」と割り出した数値を発表した。これは藤田が<手計算>で割り出した520mに見事に一致する。藤田はその後、シカゴ大学に移り竜巻研究の権威として「ドクター・トルネード」といわれた。竜巻の規模を<F1~F5>で示す「フジタ・スケール」の考案や1975年にジョン・F・ケネディ国際空港で起きたイースタンエアライン66便の墜落事故が当初考えられたパイロットの操縦ミスではなく、ダウンバースト=下降噴流だったと裏付けるなど多くの功績を残し1998年にアメリカで亡くなった。
*79年 ポンぺイの北西にそびえるヴェスヴィオ火山が大噴火を起こした。
膨大な火山灰と火砕流が5m以上の深さに街を埋めた。「ポンペイ最後の日」と呼ばれる。長靴形のイタリアでいうとポンペイは<向こうずね>の位置にある。そのころの人口は2万人ほどでこの火山を挟んで北西20キロにナポリ、さらに180キロ先には繁栄を誇ったローマがあったからナポリと並ぶローマの別荘地でもあった。現在は地盤の隆起で内陸になったが当時は地中海に面した港湾商業都市でブドウの栽培によるブドウ酒作りが盛んだったことが出土したおびただしい酒壺から突き止められている。
ポンペイは17年前の62年2月にも大地震で周辺の町にも大きな被害が出た。続く余震でさらに被害が広がったがこのときは火山噴火には至らなかった。10年以上をかけてようやく復興成ったばかりだった。数日前から噴火の<予兆>とみられる大きな地震が続いたのでかなりの人たちがナポリなどに避難していたとされる。しかし、激しい降灰で通りが埋没し、動かせる船もなくなって相当数が取り残された。噴火に続いて火砕流=熱泥流が発生したのは25日にかけて。最近の研究では時速数百キロのスピードがあるとされるから一瞬のうちに街全体が埋まったとみられる。近年の発掘調査では石膏の注入で遺体のあった<空洞>をそのまま蘇らせることができる。そこから親子やカップルが抱き合ったまま死んでいるとわかるケースも多い。親は子を、恋人たちはお互いをかばいながら埋まった。その前に音もなく忍び寄った火山性の有毒ガスにやられた人たちも多かった。
ところでポンペイの守護神は美と恋愛の女神「ウェヌス」。娼館とみられる建物には男女の<愛の営み>を描いたおびただしい壁画が発掘されたことで“みだらな快楽都市”というイメージもできた。しかし性的におおらかな時代だったから商業都市といわれる町にはどこにも商人相手の同様の娼館があったわけで、出土した不運かこじつけというべきか。
<古代ローマのタイムカプセル>はまだまだ驚きの新発見もありそうだという。