“8月29日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1974=昭和49年 宝塚大劇場で月組公演『ベルサイユのばら』が初日の幕を開けた。
池田理代子の原作劇画を宝塚専属の劇作家・植田紳爾が3部30場にまとめた脚本は、池田が宝塚の舞台のために原作の一部を書き直した。フランス革命に揺れるパリの王室、男として育てられたヒロインの近衛隊長オスカルの愛と苦悩を歴史上の人物をからめて描いた。断頭台に消える悲劇の王妃マリー・アントワネットとオスカル、スウェーデンからパリに留学してきた青年貴族フェルゼンを配した「恋物語」に仕立てられた。
演出を手がけたのは<永遠の銀幕スタア>長谷川一夫だった。戦時中、創立者の小林一三と約束があったことから星組の『我が愛は山の彼方に』の演出したことがあったが『ベルばら』は宝塚始まって以来の大作である。長谷川はそれまでの40年間の経験のすべてを注ぎ込むつもりで宝塚に乗り込むと榛名由梨、安奈淳、汀夏子らのオスカルスターを集め「主人公のオスカルは男装の麗人、彼女を慕うアンドレは男。しかもそれを女の子が演じるでしょう、男か女か区別がつかなくなりますね」と語りかけて『雪之丞変化』の話を持ち出した。「闇太郎という男と雪之丞という女形の関係を置き替えるとアンドレとオスカルになりますでしょ」と。生徒たちは目をパチクリだったろうがそちらもおさらいして必死で食らいついた。
演出で長谷川が心がけたのは「脱・宝塚」だった。役よりも彼女たちの持っている力を引きずり出すという方法。手や目の位置、動きまで細かすぎるほどの演技指導がスタートした。目ざしたのは<思春期の少女たちの心に夢を>。それを速いテンポながら豪華な演出、なにより<甘いシーン>にこだわった。通俗的で学芸会みたいという批判には「お客さん第一に考えた結果です。見てくれる人に喜んでもらえばいいのですから」と気にも留めなかった。
ラブシーンもそれまでの宝塚とは全く違い、筋肉が悲鳴をあげるくらい体をよじって抱き合うよう指導した。客席の観客から<美しく見えるため>で「ラブシーンは美しくなければあかんのよ。より美しく、よりきれいにしいや」と言い続けた。スターであっても「あかん、あかん。気持ちが入ってない。それでは、お人形や」と叱った。スポットライトの当て方もまったく変えた。トップスターに常に当て続けることで舞台効果と興奮度を高めることを徹底した。
公演当初、原作の劇画と宝塚の舞台との細かな差異をあげつらっていた劇画ファンがさらに批判するつもりで舞台を見てすっかり引き込まれてしまった。続いて以前からの映画や舞台の長谷川ファン、もちろん一度も宝塚など見たことはなかったのが長谷川の演出と聞いて<ためしに>見に行ってこれまたはまってしまった。見せ場の一つアンドレが盗賊に襲われるシーン。安奈が「これが『稚児の剣法』だ!」と叫ぶ。長谷川が松竹映画『稚児の剣法』(1927=昭和2年)でデビューしたときの題名をさらりと挿入するというシャレ心だった。『大坂夏の陣』、『鯉名の銀平』、『お夏清十郎』の名シーン、名台詞が巧妙にデフォルメされることで長谷川の<肉体>を通じて宝塚の『ベルばら』に注入されているのが随所に見つかったからこれには<長谷川一夫一筋>だったおばちゃま達も参った。
長谷川の演出は昭和51年の初回シリーズが終演になるまで足かけ3年も続いた。長谷川の縁戚で「週刊読売」に『小説長谷川一夫・男の花道』を連載したミステリーの女王・山村美紗は「たしかに小林一三への恩義はあったろうが奥底に流れるのは世間の見る以上の長谷川の<男気>だった」と評している。
1708=安永5年 未明の屋久島、南端、唐の浦に潜む侍姿の不審者を島民が見つけた。
頭を月代に剃り、和服に大小二本差しだがどう見ても異人。話しかけたがまるで通じない。到着した役人も戸惑うばかりだったが鎖国下だったので捕えられて長崎へ送られた。通詞によって尋問が進むとイタリア・シチリア島出身のカトリック司祭で40歳のジョヴァンニ・バティスタ・シドッティとわかった。
本国で司祭をしていたがキリスト教が禁教の東洋の島国で宣教師らが殉教したことを聞くにつけ、命を賭けてその日本へ渡航することを決意するようになった。教皇クレメンス11世に願い出て許可をもらって出国したがマニラの司教らの反対で足止めされる。ここで4年間働くうちに意思の堅さや働きぶりを認められ、鎖国下の日本へ渡るための船など諸準備が進められることになった。侍姿も工夫のひとつだったが上陸場所の<方言>までは無理だったようだ。
翌年、江戸に護送され、幕府に重用された儒学者の新井白石から直接、尋問を受けた。白石はシドッティの人間性や知識に大いに感銘を受け、シドッティもまた心を開いたので意思疎通がスムーズに進んだ。幕府は白石の上申を受け、シドッティを茗荷谷の切支丹屋敷に幽閉することにし「20両5人扶持」という破格の待遇を与えた。白石はシドッティとの対話で得た知識を『西洋紀聞』と『采覧異言』にまとめた。1714=正徳4年10月21日、シドッティ衰弱死、46歳だった。
断食による覚悟の死だったとも伝えられるが、死ぬまで肌身離さなかった「親指の聖母像」は衣のひだからマリアの左手の親指がのぞく構図で、重要文化財として東京国立博物館に収蔵されている。