“9月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1923=大正12年 午前11時58分、関東大震災が発生した。
相模湾北西沖80キロを震源とするマグニチュード7.9の大地震で死者・行方不明10万5千人以上、建物の全半壊25万戸以上、焼失家屋は22万戸以上にのぼった。
この8日前、芥川龍之介は友人の洋画家で俳人の小穴隆一と鎌倉の旅館「平野屋別荘」に泊まった。真夏なのに紫色の藤と八重の山吹が花を付け、さらに小町園の庭の池には蓮と菖蒲が咲き誇っていた。芥川は「どうもこれは唯事ではない。天変地異が起こりそうだ」と言い始め、東京に戻ってからも会う人ごとに繰り返した。
地震の発生当時、田端の自宅「澄江堂」一階の茶の間でパンと牛乳の昼食を終えてお茶を飲もうとした矢先、大揺れがきた。芥川は母親と表に飛び出し妻の文は生後9カ月の次男を寝かしつけていたので2階に駆け上がって連れ出した。ところが三歳の長男と父親が見当たらない。お手伝いさんが家に戻り長男を見つけて抱いて出る間に父親も庭を回って出てきた。家は大きく揺れたものの被害は庭の石灯篭が倒れ、瓦十数枚が落ちた程度だった。夜に入ると都心方面の火災はさらに燃え盛り巨大な溶鉱炉を見るようだったと『大震雑記』に書いた。翌日も上空を煙が覆い、見舞客から東京全滅、横浜や湘南地方も全滅したと聞いた。親族や友人の生死が不明なのを憂いていたが田端も延焼の恐れがあるということで、家財一切はそのままにして飛鳥山へ避難した。持ったのは風呂敷に包んだ漱石の書一軸のみ、妻も子供のおしめと着替えだけだった。「人欲素より窮まりなしとは云え、存外又あきらめることも容易なるが如し」と書いたが焼け残った。
*1935=昭和10年 第一回の芥川賞と直木賞が『文藝春秋』九月号に発表された。
芥川賞は新進の純文学作家で無名だった石川達三の『蒼氓』、直木賞は大衆文学作家の川口松太郎の『鶴八鶴次郎』と『風流深川唄』が選ばれ賞と時計、副賞の五百円が贈られた。
選考には賞の創設を考えた社主の菊地寛と久米正雄、佐々木茂索が両方に入り、芥川賞は山本有三、佐藤春夫、谷崎潤一郎、室生犀星、川端康成らを加えた11人、直木賞は吉川英治、大仏次郎らを加えた8人で審査した。石川は審査員全員が面識がなかったのでブラジル移民を描いた作品のみで論じられたが、太宰治と川口は生活態度まで俎上にのぼった。川端が太宰を「私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みがあった」と誌上に書いた。受賞した川口はさすがに“甘受”したのだろうが選から漏れた太宰は憤慨して川端に抗議文を送る騒ぎになった。佐々木は講評で「知らるるも憂患多し、知られざるもまた憂患多し」とうまいことをいっている。
31歳の石川の所感は「今後どれほどの立派な作品を創ることができるか、自分では内心はなはだ忸怩たるものがあるが、俊才芥川氏の後塵を拝して、浅学非才の自分はたゆまざる駑馬の努力をしていきたいと思う」ときわめて控え目だった。
対して37歳の川口は「私は故人直木と因縁が深い。直木賞の制定が発表された時にも、力作を書いて自分がもらいたいと思った。直木は生前、私の書いたものなぞ軽蔑していて読んでもくれなかったが、たった一つ『脱走兵』を読んで説明が多い、もっと描写で行けと注意してくれた。あれだけ長い交際のうちで文芸的な注意をもらったのは後にも先にもこの一言だけであった。私が直木賞を受けたと聞いたら、地下の直木は、あの禿げ上った額の先に皮肉な苦笑を浮かべている事だろう」とこちらは余裕と自信に満ちた弁だった。
*1934=昭和9年 「大正浪漫」を代表する挿絵画家・竹久夢二が49歳11ヵ月で没した。
「夢二式美人」ともいわれた抒情的な作品を描いた。詩や歌謡、童話なども創作したなかで『宵待草』の詩に感動したヴァイオリン奏者の多忠亮(おおの・ただすけ)が曲をつけ、1918=大正7年にセノオ楽譜から楽譜を出版するとまたたく間に全国民の心をつかみ一世を風靡した。夢二は中央画壇へのあこがれはあったが受け入れられず、書籍の装丁やポスター、浴衣なども手がけ、わが国の近代グラフィック・デザインの草分けの一人となった。
結婚、離婚、同居、別居を繰り返したたまきをはじめ、彦乃、お葉という夢二を巡る3人の女性とは結局別れたが恋愛遍歴には事欠かなかった。晩年は夢に見た海外渡航を米国から始めた。しかし不況下でもあり1年3カ月の滞在は実らず、ヨーロッパへ。ドイツ、チェコ、オーストリア、フランス、スイス、イタリアの諸都市を1年かけて回り、多くのスケッチを制作したが無理がたたったのか帰国後に結核を発症して病床に就いた。
長野・八ヶ岳山麓にある富士見高原療養所特別室に入院して7ヶ月余、前日から徹夜で看護にあたった医師や看護婦にかすかな声で「ありがとう」の言葉を残して午前5時40分、息を引き取った。遠隔のサナトリウムでの長い療養生活ということはあったが50歳を目前にしての「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ」という歌のような淋しい死だった。東京に遺体を連れ帰った親友の画家・有島生馬が雑司が谷墓地の墓に「竹久夢二を埋む」という墓銘を書いた。