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“9月8日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1944年  ロンドン市民は未明の空襲で再び新たな恐怖に襲われた。

ドイツの「新型ロケット爆弾・V2」によるものである。もちろんその名前までは知る由もなかったが、6月12日から始まったV1ロケットが低空から「ブーン」という独特の唸り音を発しながら飛来してきて<迎撃可能>だったのに比べると無音で高速のまま高空から落下してくるので爆撃機での迎撃や高射砲での撃ち落としは不可能だった。

V2ロケットは第二次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ロケットで、いわゆる「弾道ミサイル」だった。宣伝大臣のゲッペルスが命名した「報復兵器第2号」=Vergeltungswaffe 2 からとった。ジェットエンジンで推進するV1が飛行爆弾で<無人戦闘機>という位置付けから空軍、液体燃料のV2は巨大な<高性能砲弾>で陸軍が所管した。同じナチスによる軍事政権下でも空軍と陸軍とでは開発も実戦部隊も別だったから互いに競争心を燃やした。

V2はドイツ中部、ノルトハウゼン近郊の地下にあった岩塩工場などに生産ラインがつくられた。働かされていていたのは主にフランスやロシアの戦争捕虜で、劣悪な環境や病気、過労死に加え、監視兵に殺されたりして1万人以上が命を落とした。全長14m、直径1.65m、航続距離320km、重量12トンという諸元で弾頭には980キロの混合火薬が使われた。実際に発射されたのはベルギーへの1,610発に次いでイギリス、しかもロンドンを集中標的にしての1,358発が続く。姿勢制御にはジャイロコンパスを使い、気圧計によって一定の高度まで降下するとエンジンが止まり無音で滑空しながら着弾する仕組みだったが誘導システムは改良段階で命中精度が低かった。このため地下工場や実験の失敗による発射以前の犠牲者のほうが多かったと酷評されている。

ドイツはロケット兵器の開発で戦況の打開を狙った。制空権が奪われた中でのヒットラーの抵抗でもあった。対するイギリスもV1への撃ち落としでは多くの爆撃機を割り当てたが、 V2は高速のため発射後に空中で捕捉するのは困難だった。そこでドイツへの空爆でロケット兵器を発射する移動式の発射台そのものを見つけて破壊しようとしたが森林地帯にまぎれての神出鬼没ぶりだったから成果はなかなか上がらなかった。ドイツの敗色濃いなかで登場したロケット兵器ではあったが戦況は変わらず、迎撃不可能なV2はかえって連合軍のドイツ進攻を早める動機付けになった。敗戦後のドイツの地下基地にはロケット生産ラインやズラリと並んだロケット本体が残されていた。ここで毎日何十もの死体を焼いた焼却炉が公開されたことでこんどは世界を震え上がらせた。

ロケット技術に関して言うならば大戦後さらに発展を遂げて核兵器を搭載した大陸間弾道弾の開発につながり、一方では宇宙開発に貢献した。「戦争が科学を育てる」という側面は言ってみれば紙の表と裏。落とし穴は<ただの紙一枚>に蔽われているだけかもしれない。

*1876=明治9年  「東京曙新聞」に不動産=借家の広告が載った。

旧・京橋五郎兵衛町13番地の物件である。JR東京駅八重洲南口の銀座寄りで八重洲2丁目、八重洲ブックセンターの東側あたり。当時、東京駅はまだなかったが皇居方面=西から外堀の鍛冶橋を渡ったすぐの場所で古着屋や蕎麦屋など商店の多い町だった。

まずは環境について「閙市ノ間ニ在リテ、閑静ノ地ヲ求ムルハ豈容易ナランヤ」つまり「喧騒な町なかにあって閑静な土地はそうそうありません」からはじまり「一歩出レバ百事弁ゼザルハナシ」と「ちょっと出れば(買い物でも)何でも済ませます」とある。

物件は、<門構えの一戸建て>で、門を入ると「四季ニ変ゼズ」という常盤木の植わった植え込み。8畳、4.5畳に縁側、雪隠(便所)のついた母屋と玄関、お勝手(台所)は別棟で他に2畳の女中部屋がついている。設備はポンプ式井戸で庭に「総石ノ穴蔵アリ」というのは万一の火事に備えてだろうか。但し値段などについては「御来談」とある。

お勝手(台所)は別棟で、と紹介したが主婦にとって大切な台所は北側に小さく造られ、流し台も現在のような「立ち流し」ではなく土間に置かれ、炊事や洗濯は座って行った。井戸も一軒の家にあるのは少なく、何軒かが共同でつるべ井戸を利用した。水汲みは主婦の大事な仕事で台所の水がめにせっせと水を運んでいたので、この物件の「ポンプ式井戸」は大きなセールスポイントだった。

驚かれるかもしれないが当時の借家には畳はついてないのが普通で、引越しの際には畳も持ち運んだ。借家の貼紙も「造作付借家」はせいぜい障子か襖くらい、畳がある場合は「畳造作付貸家」だった。照明はもっぱら菜種油などの灯明が主流、ランプは輸入品で高価だったからこの物件に書かれていないところをみると付いていなかったか。もうひとつ、明治初期の東京、日本橋などの商家は瓦葺だったが庶民の住宅や長屋の屋根はかや、わら、杉皮、板、竹瓦が多く使われ、瓦もようやく普及し始めた。広告に屋根のことは触れられていないが「畳の有無」「築年数」と合わせて要チェックではあろう。

問合せ先という「南鍋町二丁目」は現在の銀座6丁目付近で「藤野屋ト申ス御合茶屋」とは藤野屋という屋号の庶民相手の仲介屋で専門の不動産斡旋業者のさきがけだった。

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