“9月9日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1694=元禄7年 俳人・松尾芭蕉は重陽の節句で菊祭りの奈良にいた。
南都といわれる古都でゆっくりしていたわけではない。前日、兄の子の又右衛門と弟子の支考、惟然(いぜん)を伴に風邪気味なのをおして故郷の伊賀上野をたち、途中、木津川を船で下るなどして夜には奈良に入り猿沢の池のほとりの宿に泊まった。体調がすぐれなかったのでどこにも出かけなかったが
ぴいと啼(なく)尻声悲し夜ルの鹿
と詠んだ。静かな秋の夜更け、闇の彼方から牝鹿を呼ぶ牡鹿がしきりにピィーと長く曳いて啼くのをそのまま洒脱な句にした。他にも二句、体調とは裏腹に気に入った句が出来た。
菊の香やならにハ古き仏達
菊の香やならハ幾代の男ぶり
朝食を済ませると雨をついて宿を出発した。弟子たちのいさかいの仲裁を頼まれていたからどうしてもこの日のうちに大坂に入りたかったからである。三条大路から尼ヶ辻を西へ、真っすぐのびる街道を砂茶屋を経て生駒谷から標高440mの暗(くらがり)峠を目ざした。芭蕉はさすがに疲れていたので駕籠を頼んで峠を越したがここでも
菊の香にくらがりのぼる節句かな
をものにした。
生憎の雨、峠からは晴れの日には一望できる生駒から大坂平野への展望は望めなかった。大坂の町はずれで駕籠を降りる時分も雨は止まず、一行は雨除けの薦(こも)をかぶって市中に入った。芭蕉は常々「俳諧師は乞食(こつじき)行脚の身であることを忘れてはならぬ」と自戒していたから人目も考えて駕籠は使わず薦をかぶったまま先を急いだ。玉造あたりで日は暮れきり、寄宿先に着いたのは夜だった。
このときの無理がたたったのか。悪寒を我慢して仲裁の重責は果たすが、芭蕉は寝込むようになる。夜の鹿、仏、峠のくらがり・・・・どことなく<死の予感>を感じるなどと評するのは僭越だろうが、ほぼひと月後に「旅に病んで」の辞世の句を残して旅立つことを考えると「芭蕉をそこまでにさせたのは何だったのだろう」と思ってしまう。
*1737年 カエルの筋肉に電流を流すと筋肉がけいれんすることを発見したガルヴァーニ誕生。
イタリア・ボローニャで生まれた。教会の聖職者になるのが夢だったが両親は医者になるように教育を受けさせ父と同じ医者になった。ボローニャ大の解剖学教授時代にカエルを使った実験で、メスとピンセットに弱い電流を流すと脚がわずかに動いた。ガルヴァーニはこれから「筋肉が動くのは生物のなかに電気が蓄えられる<動物電気>によるのではないか」という推論を立てた。それまでは筋肉が動くのは神経が何らかの液体を運び筋肉を膨張させるためだと考えられていた。「ガルヴァーニの発見」はそうではなく電気が筋収縮に関連があるとしたわけだ。
中学時代の生物の時間、このカエルの筋肉反応の授業で居眠りしていた生徒がいた。先生がそれを見つけて「カエルの脚の筋肉はなぜ動く?」と質問した。その生徒は「はい、カエルは下等生物だからです」と答えたのでクラス全員が爆笑した。誰とは言いませんけど。余談ついでに<眠らずに>研究を重ねたガルヴァーニはボローニャ大の学長にまでなった。ボローニャのガルヴァーニ広場にはガルヴァーニのモニュメントがあり、月にはガルヴァーニというクレーター、ガルヴァーニと名付けられた小惑星まであるという。
*1871=明治4年 皇居内の本丸庭園で陸軍近衛師団が空砲による正午の報時を始めた。
江戸時代の太鼓にかわる<時の知らせ>で市民からは「ドン」の愛称で親しまれた。
時計など普及していなかった当時、正午のドンは正確な時間を知るのに大いに役立った。これが各地に広がるとその場所が「午報台」とか「ドン山」と名付けられた。皇居の午報は1922=大正11年に東京市に引き継がれるが経費難から1929=昭和4年5月からはサイレンに代わった。
*1928=昭和3年 大阪毎日新聞がはじめて電送による写真を掲載した。
現在のファクシミリ(=FAX)である。1906年にドイツ人のコルンとフランス人のベランがほぼ同時期に写真の伝送に成功した。受発信双方が円筒形の装置を同じ速度で回して光電管によって「光」を電気信号に変えてやり取りする。日本では1924=大正13年に大阪毎日新聞と東京日日新聞がコルン式を、1928=昭和3年には朝日新聞がベラン式を輸入した。しかし実験段階ではできたが「同期ずれによる画像乱れ」が解消できず実用化されなかった。各社が目ざしていたのはこの年11月10日に京都御所で行われる昭和天皇の即位礼の写真だった。
大阪毎日新聞は外国製をあきらめ日本電気が開発した「NE式写真電送機」を採用、この日の写真はその実験風景だったが各社に<半歩>リードしたわけだ。