“9月11日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1885年 作家D・H・ローレンスがイギリス・ノッティンガムの炭鉱町に生まれた。
父が炭鉱夫の頭で母は技師の娘。母の影響を受けて育ち、大学を出ると教職に就きながら文芸雑誌に詩が掲載されて文壇にデビューした。27歳の時、一男二女の母親で6歳年上の大学教授夫人フリーダと恋に落ちて駆け落ち、ドイツ、スイス、イタリアへ。生涯にわたる旅と遍歴の始まりだった。そのあと正式に結婚するが二人はフィレンツェ、カプリ島、バーデン・バーデン、シシリー、サルディニア、セイロン、オーストラリア、アメリカ、メキシコからフィレンツェへ。ここで『チャタレ―夫人の恋人』を書いたがドイツ旅行中に結核が悪化、南フランスのヴァンスで45歳の人生を閉じた。遺灰はアメリカのニュー・メキシコ州タオスに葬られた。ここはローレンスも2年間住んでいちばん気に入った場所だった。
長くない一生で残した小説27、詩集10、戯曲4、エッセイと旅行記15、戯曲4、イタリア文学の翻訳4、さらに画集、書簡集や死後に出版された遺稿もあるからイギリスでも稀有の天才で特異な地位を占める大作家である。<特異な>というのは日本では『チャタレ―夫人の恋人』のわいせつ裁判、イギリスでも『虹』が風俗紊乱で発禁処分を受けた。それもあってローレンスの思想は<性の哲学>であるといわれる。
「性とは宇宙における男女間の均衡であり、美と怒りの源泉である性の火は生ある限り燃え続け、うっかりするとやけどする。ただ安全に汲々としている人間が性の火を憎む」
ローレンスは自然と宇宙に順応する生命を蘇らせるものとしての「性」を追求し続けた。一生を賭けて自然の探求を続けた詩人でもあり、表現することを通じて病んだ社会を相手にひるまず闘った。「性」もあくまでそのほんの一部だったとはいえまいか、と、やけどしない程度に書いておく。
*1947=昭和22年 「戎橋松竹」が戦後大阪初の寄席として復活した。
市電千日前線・戎橋電停のすぐ前、こけら落しは出演者一同が「船乗り込み」で劇場入りした。とはいっても<はりぼての船>を中からかついで路上を歩いて。寄席芸人ならではの“洒落た”というか“シャレた”趣向に観衆からは喝采がわき起こった。
初日の演目は次のような豪華な内容だった。
「舞台開笑三番曳」:勝美・花蝶/ニコニコ・花楽/桂米團治(四代)
「奇術」:一陽斎都一
「落語」:桂春團治(二代)
「漫談」:丹波家九里丸
「落語」:三遊亭金馬(三代=東京から)
「漫才」:芳子・市松
「落語」:笑福亭松鶴(五代)
口上を述べた松鶴は感極まって泣いた。これには寄席の灯がともされるのを一日千秋の思いで待ちかねていた観客も全員が泣いたと伝わる。
*1916=大正5年 京都大教授・河上肇が「大阪朝日新聞」に『貧乏物語』の連載を始めた。
「驚くべきは現時の文明国における多数人の貧乏である」から書き出された連載は
(上編)いかに多数の人が貧乏しているか
(中編)何ゆえに多数の人が貧乏しているか
(下編)いかに貧乏を根治することができるか
という構成で人間にとって大切なものはその一は「肉体」、その二は「知能」、その三は「霊魂」であるとして、人間の理想的生活といえばこれら三つのものを健全に維持し発育させて行くことにほかならないとさらに噛みくだいて紹介した。
「たとえばからだはいかに丈夫でも、あたまが鈍くては困る。また、からだもよし、あたまもよいが人格がいかにも劣等だというのでも困る。この三つの自然な発達を人々の天分に応じて維持するのに必要なだけの物質を得られていない者はすべて貧乏人と称すべきなのである」
人類の発展と経済の原理を猿人、原人からはじめ、アダム・スミスやマルクスも登場させながら説いた。言おうとしたところは「貧乏をなくすには金持ちが奢侈=贅沢をやめること」だったがわかりやすさが受けて翌年に出版されるとたちまちベストセラーになった。
河上は東京帝大の学生時代に足尾銅山鉱毒事件の演説会で感激、その場で外套、羽織、襟巻を寄付して「東京毎日新聞」に<特志な大学生である>と報じられたエピソードがある。
河上の社会に対する<義憤>がこれを書かせたともいえるが第一次大戦下の好景気の裏側にはどうしようもない貧困問題があったわけでその矛盾を鋭く衝いた。