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“9月16日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1857=安政4年  秋晴れに誘われた薩摩藩主・島津斉彬は藩営写真機試験工場をのぞいた。

普段どおりの裃(かみしも)姿だった。オランダ人からはじめて買い求めた写真機の操作手順や写真の仕上がり具合について部下から進捗状況を聞くと「ご苦労。よく研究してくれ」といつものように激励した。よほど機嫌が良かったのかこの写真機で藩主自ら写真に収まることになった。露光時間が長かったので椅子に腰をおろしたが正面ではなくやや右斜め方向を向いている。細面のやさしい顔で乾版写真に残っている。この写真は「最も早く写真に撮影された大名」として有名だが、写真機はよほど気に入ったようで自分でも写真を撮っている。鹿児島城や噴煙を上げる桜島、錦江湾に浮かぶ船などを撮影した。アングルも含めその技術はなかなかのものだと評されている。

斉彬は祖父譲りの理化学好きだった。西洋列強の力の根源は理化学に基礎を置いた工業力にあることを早くから看破してアルファベットを習うなど広い世界認識を持っていた。浪費による藩財政の悪化を心配する守旧派と斉彬派とが藩を二分する争いになったが藩主に就任すると殖産工業に力を入れた。「集成館事業」と呼ばれる薩摩切子に使われた紅ビードロやガラス工芸品、ガス灯などのガラス工業や富国強兵にもっとも力を注ぎ、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷などを手がけ他藩にも大きな影響を与えた。鎖国下ではままならなかったなかで斉彬の知の源泉となったのは諸外国からの新知識を吸収すること。たとえば洋式造船は1851=嘉永4年7月に土佐の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎を保護し藩士に造船法などを学ばせた。これがのちに幕府に献上した洋式帆船「いろは丸」や西洋式軍艦「昇平丸」の建造に役立てられた。1858=安政5年49歳で没。西郷隆盛をはじめ後の維新志士らにも慕われた。なかでも西郷は死去の報に号泣し殉死しようとしたほどだったと伝わる。このエピソードが象徴するようにその最大の功績は、明治時代を築くことになる<人材>を育てたことだろう。

『島津斉彬言行録』では
「君主は愛憎で人を判断してはならない」
「十人が十人とも好む人材は非常事態には対応できない」
などいまでもそのまま当てはまる近代的な人材登用策を示している。

*1923=大正12年  関東大震災の混乱で戒厳令下の東京で「甘粕事件」が起きた。

アナーキストで社会運動家の大杉栄、内縁の妻の伊藤野枝、大杉の甥の橘宗一が東京憲兵隊の麹町憲兵分隊に連行され、同夜、甘粕正彦大尉に柔道の絞め技で殺された。または「大杉事件」と呼ばれる。宗一はわずか6歳だったがアメリカの市民権を持っていたためアメリカ大使館が猛抗議、隠し通せなくなった陸軍の発表で甘粕の犯行が発覚した。

甘粕は軍法会議で「国家のためにならない危険人物を、自分だけの意思で殺害した」と述べたが共犯関係や上司の指示の有無などは不問のまま懲役10年の判決を受けて決着した。
ところが千葉刑務所でわずか3年弱、刑に服したが1926=大正15年10月に釈放され、陸軍の官費でフランスに留学、その後は満洲にわたり満州事変にかかわることになる。

大正デモクラシーの背後にある軍部の暴走の予兆、まさに<虎は野に放たれた>のである。

*1877=明治10年  アメリカの動物学者エドワード・モースによる大森貝塚の発掘が始まった。

わが国におけるはじめての学術的発掘調査で当時はことばさえなかった「考古学」を日本に根付かせることになった。モースは東京帝大に招かれた「お雇い外国人」のひとりで動物学やシャミセンガイなど化石も多く残る「腕足類」の専門家でもあった。

来日直後の6月19日に横浜から新橋に向かう列車が大森に差しかかったときに車窓から崖に貝の層がのぞいているのを見つけた。モースはこれが貝塚であるのを見抜き、大学へ報告して東京府を動かした。東京府は土地の所有者に補償金を払うことで発掘が実現した。モースの描いたスケッチに発掘に参加した東大生らがしゃがみ込んで崖下を掘るようすが描かれている。5日間の発掘で貝殻、土器、土偶、石斧、石鏃、鹿やクジラの骨、人骨などが大量に採取され、モースは約4,500~3,300年前の縄文時代後期につくられたと推定した。

富士山や箱根山が噴火して農作物の不作が続いたので比較的変化がなかった海からの食料を集めるには便利な場所だったと推理した。発掘された遺物は東京大学に保管されているが重複資料は東京府などの許可をとりアメリカの博物館や大学に寄贈することで代わりに入手した学術資料や書籍を東大にもたらした。

遺跡は1655=昭和30年に国の史跡に指定された。モースは貝塚の位置を「大森村」としか書き残さなかったためわずか300mしか離れていない公園に品川区が「大森貝塚」大田区が「大森貝墟」というふたつの石碑が<共存>していた。その後、東京都の調査で補償金を支払ったのは品川区の土地所有者ということが確認され位置論争に決着がついた。

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