“9月18日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1698年 この日、パリのバスティーユ監獄に1台の馬車が滑り込んだ。
窓はすべてカーテンで閉じられ看守抜きで監獄長が直々に出迎えた。降りてきた人物は黒いビロードで顔を覆っておりそのまま家具付きの<特別室>に案内された。やがて「鉄仮面」と呼ばれることになる17世紀フランス史上最大の<謎の人物>である。最初に収監されたピネローロ監獄では皇帝から直接の世話をするよう密命を受けた監獄長の死でシャトー・ディフ監獄へ、そこからバスティーユに移送されてきた。一応「マルチアリ」というイタリア人風の名前が付けられていたがもちろん仮名で、世話をするのも監獄長みずからだったとされるから名前は不要だった。5年後の1703年に幽閉のまま死を迎えると所持品の一切が焼き棄てられた。この人物はいったい誰なのか、身元の詮索はヴォルテールから始まり、現代もたとえばマルセル・パニョルの『鉄仮面の秘密』(1969)のように注目作品が生まれるたびに話題になる。百家争鳴、主な説を紹介するだけでも骨が折れるがルイ14世の異母兄説、同じくルイ14世とある王族夫人との私生児説、政治犯の嫌疑をかけられた王族等々。その人物がギロチンにかけられない程度の何か<重大な罪>を犯して収監されたのは確かだ。
わが国では黒岩涙香がボアゴベイの作品を翻案した『鉄仮面』を1892=明治25年から「萬朝報」に連載して大人気になった。これを1938=昭和13年に江戸川乱歩が小中学生向けに書き直した講談社版が版を重ねた。大仏次郎によるデュマ作品の翻訳やその他、映画、漫画、紙芝居、ラジオドラマなどの『鉄仮面』もあるから日本は相当な<鉄仮面大国>である。「鉄仮面」はたとえばこう紹介される。「その男は鉄の仮面をかぶせられていた。食事のときに仮面の下アゴ部分を外してもらえる以外は仮面をつけたままだった」。挿絵は大抵が西洋式の甲冑のイメージで描かれ、食事テーブルには外した<下アゴ部分>が置いてある。ところが実際にこの人物が付けていたのは「布の顔覆い」とされる。しかも付けたのは人に会う時だけ。布もビロードではなくもっと薄手の布だったかもしれない。顔を隠すためだから仮面舞踏会=マスカレードのような仮面ではなく、垂らしただけでたとえるなら文楽の黒子のような感じだろうか。本国フランスでも「鉄仮面」が有名になると鉄仮面姿の人物の絵や銅版画などが盛んにつくられてそのイメージを大衆に刷りこんでいった。
これ以上あれこれ書いていると<鉄面皮>と言われかねないので止めておくが布のベールでなく「鉄仮面」としたところに想像力を無限にかきたてる秘密があったのだろう。
*1931=昭和6年 旧満洲、奉天近郊の南満州鉄道の線路が爆破された。
現場の地名から柳条湖事件と呼ばれ、満洲事変の勃発につながった。現在の中国東北部瀋陽市にあたる。関東軍は発生場所も架空の<柳条溝>と偽り、現場にあったとする中国兵の小銃やスコップ、帽子などを証拠物件に仕立てあげて中国軍の犯行であると騒ぎたてたがすぐに偽装だったことが明らかになる。直後に急行列車が現場を無事通過しているから「爆破」だけをアピールしただけの茶番劇。その一部始終はコウリャン畑を照らす半月が見ていた。
*1983=昭和58年 アラスカ・ブルドーベイに報道陣のカメラのフラッシュが一斉に光った。
主役はジョージ・ミーガン。ツンドラ地帯にあるぬかるんだ最後の数メートルを歩ききり、銀色に光る冷たい北極海の水に手を浸し感激のあまり大地にひれ伏して泣きだした。7年間に及ぶ南北アメリカ大陸徒歩縦断のゴールの瞬間だった。1952年、イギリス・ミドルセックス州に生まれた。ハイスクールを出ると2等航海士になり日本に寄港した際に知り合ったヨシコと77年1月26日、南アメリカ南端のフェゴ島から歩き始めた。名古屋でOLをしていたヨシコとの出会いも面白い。休暇で伊豆半島をヒッチハイクしながら回っていたジョージをドライブ中のヨシコが拾ったのがなれそめ。京都に行きたいというのでそのまま名古屋まで送って別れた。
3ヵ月後に再来日、こんどは富士山に登ることになった。ヨシコは登頂するがジョージは途中でダウン、これで<歩ける女性>という評価が定まったらしいがフェゴ島まではもちろん色々あった。ヨシコははじめのフェゴ島を<全島歩き通した世界初の女性>となった。あとはヒッチハイク、ジョージはひたすら歩き続けた。チリからアルゼンチンに入ったところで結婚、ヨシコは歩き続けるジョージを置いて出産のため2度日本へ里帰りした。
ボリビア、ペルー、エクアドル、コロンビアと歩いてパナマ運河が79年9月、中央アメリカのコスタリカ、ニカラグア、ホンジェラス、グアテマラから北米のアメリカ・テキサスにはいったのが80年7月だった。ここには長女と2番目に生まれた長男を連れたヨシコとジョージの母と兄が待っていた。アメリカではテレビやラジオに出演し、講演をこなし原稿を書いて<多少は>生活費を稼いだらしい。
全行程約3万キロ、ギネス・ブックに8つの記録を残したがもちろんこの記録は彼が初めてであり多分、これからも破られることはないと思う。多少、個人的な話まで紹介したのは知り合いだからでもあるが、人生の長旅の最後はヨシコの出身地の岐阜県で過ごすと聞いている。