“9月20日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1925=大正14年 東京六大学野球連盟が発足した。
6校目としてこの年の春に東京帝大が参加した。さらに過熱を恐れて早慶戦を中断していた早稲田と慶応の2校を明治が中心となって説得することでようやく足並みを揃った。
初試合は明治―立教戦でリーグ初の30勝投手となる湯浅禎夫投手を擁する明治が7x-1で大勝した。この年のリーグ優勝は「カーブの藤本」といわれた藤本定義投手の力投が光った早稲田が飾った。
*1611=慶長16年 徳川家康は駿府城で南蛮渡来の「世界図屏風」を献呈された。
初めて目にする世界図にしばらく無言だったというが「異域国の御沙汰に及び、世界の形勢を知得」という割には鎖国を断行したのだからわが国の置かれている位置をほんとうに<知得>していたのかは疑問ではある。
それとも南蛮人の目からは東方のはずれにある日本など取るに足らないちっぽけな存在だったろうから、あまりに小さい島国として記された地図の表記を見せつけられて「これは用心しないととんでもないことになる」と思ったか。この「世界図屏風」を献呈されたのが駿府だったからそのままこちらの城で<お蔵入り>になり、忘れ去られたということもあり得ますなあ。
*1935=昭和10年 国語辞書の『辞苑』に「バリカン」が登場して話題になった。
手元にあるこの日発刊の東京・博文館『辞苑』第70版で「バリカン」を引くとバリカン[ 沸 Bariquant ](名)人の頭髪又は家畜類の毛を刈込む金属製の理髪器具。我が国で最初に主としてフランスのバリカン・マール製作所の器具を使用したために通称となった。『辞苑』の編纂を引き受けたのは文学博士・新村出(いずる)で大変な苦労の末、この年2月5日に初版を発行した。赤クロス貼り2,285ページ函付。定価4円50銭は総合雑誌の半年分ほどの値段だったから売れに売れ、直後の15日に20版、4月25日に50版、14年4月27日に227版を発行している。
本題に戻る。バリカンは新村の友人で国語学者の金田一京助が手掛けた『日本外来語辞典』を作成する際の調査でフランスのバリカン・エ・マール社製から名前がついたと突き止めて新村に話した。行きつけの東京帝大前の理髪店「喜多床」にあったバリカンを調べてわかった。正しいスペルはBarriquand et Marre。1883=明治16年にフランス駐在の外交官・長田桂太郎により初めて持ち帰られるとその便利さが受けて大人気になり、翌年12月4日には読売新聞に早くもバリカンの広告が掲載されている。
余談ながらバリカンはフランス語では「トンズーズ」英語では「ヘア・クリッパー」だからそもそもバリカンがなぜ日本語だけに<定着>したのでしょうかねえ。『辞苑』の改訂作業は戦争で中断したが戦後、版元も岩波書店に代わり1955=昭和30年に『広辞苑』として発刊された。最新刊の第6版でも「製造元からその名がついた」を踏襲している。
*1187=文治3年 勅撰和歌集『千載和歌集』がこの日、選進された。
後白河法皇の命を受けた藤原俊成によって足かけ5年の編纂作業が進められていた。八大勅撰集の順序では『新古今集』のすぐ前で7番目。代々の勅撰集に漏れた秀歌や当代の歌人の作品を収めた。格調と抒情性を重んじながらも俊成が唱えた「幽玄の心」を基本に「温雅妖艶な中に幽寂の境地を表す」と評される。全20巻、1,288首が収められている。
王朝歌人では和泉式部、紫式部、大江匡房、藤原公任らが目立つが<当代重視>の方針からか全体の半数が同時代の歌人であり、このあたりに自分なりの新しい評価を創りあげた俊成の苦心がある。うち5分の一が僧侶歌人で貴族などから出家したあとも歌詠みを続けた僧が多くいたという時代性が見られる。最も多く入集したのは源俊頼の52首で俊成の36首がそれに次ぎ、平家都落ちでいったん浪速あたりまで行きながら都に戻り、俊成の屋敷に百首ほどの歌巻を預けたことが「平家物語」に書かれた平忠度の
さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
が「詠み人知らず」として掲載された。<逆賊>となったのを慮ってとされる。
このときの俊成の歌は
御よしのの花のさかりをけふみればこしのしらねに春かぜぞふく
<桜>の聖地である吉野山のイメージを、思いきりよく遠くの<雪>の聖地である「越の白嶺」=加賀の白山に重ねてみせることで清浄さを強調しているといいましょうか。