“9月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1846年 ベルリン天文台のヨハン・ゴットフリート・ガレが海王星を発見した。
太陽系では太陽に近いほうから8番目の惑星で名称はローマ神話のネプトゥヌス(ネプチューン)にちなむ。表面温度が-218度の「氷の惑星」だが中心の温度は逆に5千度もあると予想されている。その表面では最大時速2千キロの猛烈な風が吹いているとされ、周囲を回る13個の衛星がこれまでに確認されている。アメリカのボイジャー2号やハッブル望遠鏡での観測で台風の渦巻のような模様が観測されたがそれが数年後には消滅したことで<季節>があるという研究も発表されて話題になった。
ガレは息子のアンドレアス・ガレとともに生涯を通じて彗星を研究し、414個の彗星リストを発表した。月のクレーターや海王星の環=リングにガレの名がつけられている。ところでわれわれが小学校で習った頃は「海王星のさらに外側に9番目の惑星の冥王星がある」とされていたが、2006年にチェコのプラハで開かれた国際天文学連合(IAU)の総会で冥王星は惑星としての条件を満たさない<準惑星>に降格されてしまった。もちろんこれには未だに異論があると主張する学者グループも多いから決定がまた覆る可能性はある。この騒動、海王星発見のガレはいいとして冥王星の名付け親で英文学者・随筆家・天文民俗学者の野尻抱影は苦笑いしているかも。
*1790=寛政2年 川柳の創始者とされる柄井川柳が73歳で没した。
柄井家は代々江戸浅草新堀端の名主の家系で父親の後を継いだが無名庵川柳と号し万句合の選者として活躍した。どんなものかというと<題>として出された<前句>に気のきいた<付句>をあてる一種の「ことば遊び」。当時の上級武士や有力町人も集まった月3回の万句合が人気を呼び、多い時には投稿1万句を超したといわれる。そのうちで付句だけで意味の通じるものを独立させて川柳と呼ぶようになった。仲間と作った『誹風柳多留』が人気を呼び200編以上が出版された。評者や序文には柳亭種彦、十返舎一九、宿屋飯盛、葛飾北斎らが名を連ねているが、政府批判や諧謔の度が過ぎたことなどでたびたび幕府の干渉を受けた。この時代の川柳は「古川柳」と呼ばれ以下のような代表作がある。
これ小判たった一晩ゐてくれろ
居候三杯目にはそっと出し
役人の子はにぎにぎをよく覚え
寝ていても団扇の動く親心
翁そば元祖芭蕉と知ったふり 芭蕉は翁がつくがそば屋の元祖ではないよ
中秋はだんご十五の月見也 だんご=団子→3×5=15
川柳は選者(点者)としては有名だったが作品は残さなかった。わずかに辞世とされる
木枯らしやあとで芽をふけ川柳
が知られるがいささか<出来すぎ>の感がしないでもない。この日を「川柳忌」と呼ぶ。
*1954=昭和29年 ビキニの水爆実験で被爆した「第五福竜丸」の久保山愛吉無線長が死去した。
わずか40歳、「原水爆による死は私で最後にして欲しい」という遺言が発表されると広島・長崎での原爆の悪夢を蘇らせるものとして広く国民の関心を集め、原水禁などさまざまな形での反核運動が始まった。1959=昭和34年に封切られた新藤兼人監督の映画『第五福竜丸』では、暗闇の中で天空に火柱が立ち上り数分後には大爆音が響き渡る。やがて一面に雪のような「死の灰」が降り注ぐ。モノクロながら迫力があったのを記憶している。アメリカの立ち入り禁止の区域外だったが爆発威力が予想よりはるかに大きかった。何も知らされずに被爆し、過酷な運命に翻弄される乗組員たちの姿を久保山役の宇野重吉、妻を乙羽信子が好演した。新藤監督が旗揚げした近代映画協会の作品で、反米的として大手映画会社が敬遠する内容の作品を多くの仲間が支えた。
一方でアメリカ政府の責任を追及する声は事件発生以来、くすぶっていたが結局、日米両政府は慰謝料200万ドルを支払うことで合意した。生き残った他の乗組員たちも終生放射能の恐怖と闘ったことは「第五福竜丸」の保存活動や彼らが残した著書や体験記、証言が物語っている。
*1859=安政6年 ヘボン式ローマ字を考案したジェームス・カーティス・ヘボンが来日した。
横浜市神奈川区に施療所を開設して医療活動をするかたわら宣教師として伝道も行い眼科治療がきっかけで知り合った岸田吟香とともに初の和英辞典『和英語林集成』を編纂した。このときの日本語の表記に考案されたのが「ヘボン式ローマ字」で自分の<日本語名>を美国平文と訳している。美国はアメリカを指す中国語の美称。横浜に開校したフェリス女学院の前身や私財を投じて東京・白金に明治学院を設立し初代総理(学長)に就任したことでも知られる。