1. HOME
  2. ブログ
  3. “9月29日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“9月29日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1872=明治5年  横浜に関東では初めてのガス灯がともった。

神奈川県庁、馬車道、本町通りのわずか3本だけだったが、夜空に青白く輝く幻想的な光の噂を聞いて多くの人がはるばる東京からも見物に出かけた。照明器具としてのガス灯を最初に製作したのはスコットランドのウイリアム・マードックで1797年にマンチェスターに設置したのが始まり。わが国では「蚤の目大歴史」(9月16日)で紹介した薩摩藩主・島津斉彬が1857=安政4年に鹿児島の磯庭園=仙巌園の石灯篭にガス管をつなぎ照明に燃焼させ記録がある。

ガス灯としての最初は横浜より1年早く大阪造幣局の工場や近隣の街路に設置されていた。機械の燃料として使っていた石炭=コークスのガスを<流用>したものだった。横浜ではドイツ人商社との競争を「日本人による殖産興業でなければ後世に憂いを残す」と実業家で高島易断の創始者としても知られる高島嘉右衛門が制した。出資を募って横浜瓦斯会社を設立、神奈川県庁に事業認可を出願する一方でフランス人のガス会社技師・ベルグランを雇い、イギリスからガス製造機器を輸入して9月1日にガス製造所が完成した。ガス灯はその<宣伝用>で夕方になると「瓦斯点消方」と染め抜いた半纏、腹当て、股引、わらじ姿の「点消夫」が3メートルほどの竹竿の先に付けた硫黄の火で点火して回り、これが評判になった。朝になると今度はガス栓を閉めて消して回ったから寝坊をしないように「点消夫は妻帯者に限る」というのが採用条件だったとか。嘉右衛門はなかなかの宣伝上手で明治天皇を自宅に招いてそれを各新聞に書かせた。ところが実際に設置されたのは官公庁や数十軒の裕福な家庭くらいで料金も高かったから一般家庭には普及せず脱退者が相次いで20年後には公営事業となった。

東京でのガス灯登場は2年後の1874=明治7年12月18日。京橋―銀座―芝金杉橋間に一気に85基が設置された。前年に巷ではやった『開化気楽節』に
風に消されぬ ガス灯あれば 夜道行くにも気が楽な
と歌われ、大阪や横浜に先を越されたからというわけではなく東京会議所が旗振りして港区の金杉橋に工場が完成した。「東京日日新聞」は
一望数千基の燈光、陸離と続き、忽(たちまち)不夜城となる。既是文明の余輝なり
と報じている。数千基とか、不夜城とか、ちょっとオーバーではあります。翌年、上野公園で開催された第1回内国博覧会には「瓦斯館」が作られてガスによる初めてのネオンサインが展示された。いちばん人気を集めたのが点灯のたびに大歓声が上がった「菊花の紋章」のネオンだったが、3年たっても一般家庭の加入者はわずか19軒だけでこちらも経営困難になり、東京府瓦斯局は1885=明治18年に渋沢栄一の東京瓦斯会社に払い下げられた。これがいまの東京瓦斯株式会社の前身である。ガスが事業としてひとり立ちしていくのは電灯が普及していった20世紀に入ってからで「光は電気、熱はガス」という<棲み分け>が出来た。

*1927年  ヤンキースのベーブ・ルースが大リーグ年間最多ホームラン新記録を樹立した。

このシーズンのホームランは60本で1961年に同じヤンキースのロジャー・マリスによって破られるまで34年間もの間、メジャーリーグ最多記録だった。生涯通算ホームラン714本も1974年にアトランタ・ブレーブスなどでプレーしたハンク・アーロンに破られるまで39年間メジャー最多だった。

ベーブ・ルースの<記録ボックス>だけでは淋しいから貧しい下町の不良少年だった彼を初めて認めてくれた恩師のブラザー・マシアスのことを紹介しておこう。
7歳の頃には両親の手に負えなくなったルースはボルチモアの「セント・メアリー少年工業学校」という全寮制の施設に入れられた。そこで出会ったのがローマ・カトリックの神父マシアスだった。マシアスは勉強だけでなく将来自立できるように洋服の仕立て方、そして野球を教えた。野球選手になっても問題行動を起こすたびに出かけてきてはルースを諌めた。ルースは恩返しに記録だけでなく多額の寄付をし続けたが「自分の人生で最も悲しかったひとつは母を失ったこと、もうひとつはマシアス先生を失ったことだ」と語った。

*1072=延久4年  後三条天皇が官物、年貢などを量るための基準となる「公定枡」を定めた。

「延久宣旨枡」とか単に「宣旨枡」というが権威を<裏付け>にした枡は荘園の管理などには不可欠だったから平安時代中期のこの時期、一気に全国に広まった。容量は1升が現在の約6.7合(=1.2L)にあたる。確かに勝手な枡では年貢の量が違ってくるわけで徴収するほうはなるべく大きいのを使わせたいし、納めるほうはその反対。それがこの宣旨枡で統一されたわけだから揉め事の解消につながった。14世紀の南北朝から室町時代あたりまで使われた。

そういえば大阪で米穀商をやっていた私の祖母は「米は枡にふわりと入れて枡の上を角棒ですばやく滑らせるのがコツ」とよく言っていた。私と競争すると10杯でかなり差が出たからそれが通用したよき時代だったのでしょう。

関連記事