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“10月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1930=昭和5年  東海道本線の東京―神戸間に特急「燕」が登場した。

東京発の下りは午前9時発、終点神戸には9時間後の午後6時に着いた。神戸発の上りは午後零時25分発、東京着は9時20分だったから5分だけ早かった。表定速度は68.2キロ、名称は特急だったが<超特急>として鉄道ファンだけでなく国民から愛された。それまでの特急が東京―大阪間を約11時間かかっていたのを一気に2時間半も短縮した。大幅なスピードアップは機関車の大型化、木製だった客車の鋼体化、線路の改良=50キロ重量レール採用、信号の自動化などの設備改善が実った。従来の特急が11両編成だったのを7両編成と短くし、席数は1等24人、2等120人、3等226人の計370人にした。さらに停車時間を極力短縮するために機関車の付け替えをなくし東京―国府津間はすでに電化されていたにもかかわらずC51機関車による直通運転を行った。

停車駅は横浜、名古屋、京都、大阪、三ノ宮のみ。箱根と関ヶ原の急勾配を克服するための補機=後押し機関車が必要だったので下りは国府津と大垣、上りは沼津にわずか30秒だけ連結停車したが解放=切り離しは走行中に行った。ロングラン区間の国府津―名古屋間300キロは新しく水槽車(ミキ20形)を連結し、タンクからホースで給水することで解決した。一番厄介だったのが展望車の入れ替え。最後尾の展望車は東京駅に着くと田町電車区などまで後戻りし「転車台」で回転させて編成し直したが昭和15年に品川―大崎―大井町―品川の三角形の線路が開通したのでそっくり入れ替えられるようになった。

忘れるところだった。戦前の列車名は漢字の「燕」だったが展望車に付けられていたテールマークはひらがなで「つばめ」だった。ついでながら戦後復興の<シンボル>として特急「つばめ」が復活したのは1950=昭和25年1月1日の新ダイヤから。テールマークも戦前は鉄製だったが新たに2羽のツバメをあしらった直径80センチの行灯形になり、新登場の「つばめガール」も大人気となりました。

*1946年  ナチスドイツの戦争犯罪を裁くニュルンベルク軍事裁判の最終判決が下った。

特別軍事法廷が設けられたニュルンベルクは国家社会主義ドイツ労働党=ナチ党の党大会開催地という因縁の場所でもあった。イギリス人裁判長のローレンスは「文明の名において」と前置きして判決を読み上げた。A級戦犯24人のうち裁判中に3人が死亡した。判決は元ナチ党官房長マルティン・ボルマン、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング、元外相リッペントロップら12人に絞首刑、ナチ党総統代理ルドルフ・ヘスら2人に終身刑、4人に有期刑、3人を無罪にした。

判決後ゲーリングは軍人として銃殺刑にして欲しいという嘆願書を出したが却下され、刑執行前日の10月15日夜、隠し持っていた青酸カプセルを飲んで自殺した。裁判当時には行方不明だったボルマンは欠席のまま判決が出されたがその後、1973年になってソ連とのベルリンの戦い(1945年)の最中に自殺していたことが判明した。

元外相の重光葵は外相時代にゲーリングと面識があった。敗戦国の全権として降伏文書に署名したことなどもあり極東軍事裁判の<対象外>と思われていたがソ連側の強硬な要求で巣鴨プリズンに収監されていた。ゲーリングの自殺とその前に面会に来た一人娘のエッダの姿に涙したという話を聞いて
男泣く淋しき秋やゲーリング
という句を詠んだ。「淋しき秋」はそのまま自分にも当てはまる感慨だったか。

*1587=天正15年  豊臣秀吉の「北野大茶会」が京都の北野天満宮境内で開かれた。

7月に九州平定を終え、大坂城から完成したばかりの聚楽第に移って来た関白太政大臣の秀吉はまさに<飛ぶ鳥を落とす>勢いだった。権勢を示すための大規模な<野外イベント>を企画すると1カ月前から五条大橋のたもとなどに触書を出した。それを現代(いま)風に紹介すると

【日 程】:10月1日から10日間   【会 場】:北野天満宮境内「北野の森」
【対 象】:茶の湯に関心ある方はどなたでも無料で参加できます
【要 領】:参加者は釜、釣瓶、茶碗一つでも持参のこと、なければ代わりのものでも可
【服装等】:服装、履物自由、席次上下なし、国籍不問
【諸注意】:茶の湯の心得があっても参加しない場合は以後、茶の湯は禁止となります

当日は境内の松原に800以上の茶室が並び野点が行われた。早朝から自慢の茶道具を抱えた人々が遠くは堺、大坂などからやってきた。その数は千人以上に上り天満宮の拝殿には「黄金の茶室」が作られ秀吉も自慢の名物を陳列して、みずから午前中は茶頭をつとめた。当代きっての茶人といわれた千利休、津田宗及、今井宗久がそれぞれの茶室を受け持ったがなぜか大茶会は初日だけで終わった。

平定したはずの九州で一揆が発生した、権勢を示すのには1日で十分だった、秀吉が半日で疲れた、権力者の気まぐれなど諸説がある。

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