“10月8日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1945=昭和45年 東京・上野の私立上野高女4年生150人がストライキに入った。
敗戦後わずか2ヶ月、わが国の「学生運動史」では<戦後学生運動のはしり>とされる。彼女たちは何に怒り、立ち上ったのか。学校側に突き付けた要求は「農作物の公平分配」と「全職員の罷免」だった。きっかけになったのは、生徒たちが学校の野菜畑で学徒動員の延長のように汗水たらして働いたのに実った農産物は生徒にはまったく分配されず校長一家が“着服”した。この不正を黙認した職員たちも許せないというものだった。
つまり正義感に駆られて。だから<思想以前>のオハナシ、食い物の恨みというには辛すぎるモノ不足の時代でありました。
*1899=明治32年 東京・浅草に初の常設水族館が誕生した。
水族館は1882=明治15年に上野公園に開設された「観魚室(うおのぞき)」がはじまりとされるが淡水魚だけで水槽の循環ろ過装置はまだなかった。その後、上野公園での内国博覧会や神戸市での水産博覧会の目玉として「水族館」が期間中のみ開設された。
浅草公園のこの場所は江戸時代には五百羅漢があり、その後は勧工場「第二共栄館」が建っていた。それを譲り受けて資本金3万円の株式会社として水族館を建設したのだから並々ならない力の入れようだった。取材した朝日新聞がどのように紹介したのかを読んでいただこう。
(参考:単位は1尺=33cm、1吋=インチ=2.54cm)
「館内には十六の魚室を設けて一室の巾六尺乃至八尺、奥行きは五尺より六尺にして室内は石及びセメントを以て岩石形に築き、数個の穴あり魚類の生息に自由ならしめ、正面は特に欧州へ注文したる厚さ一吋の硝子を以て張り、水底には砂利又は砂を敷きてすこぶる清潔なり。魚類は大概相州三崎辺より取り寄せたり」
「人目を惹くべきは第七室の黒鯛、セイゴ、鱸=スズキ、鯒=コチ、等にて此処には石垣を造り品川湾を模したり」
「観覧料は大人金五銭、小児金三銭」
そのまま紹介したがちょっと地味でしたか。それでも東京に居ながらにして品川沖や三崎あたりの海のなかを労せずしてのぞくことができるというこの記事が、いや、この記事もきっかけになって連日大盛況に。
*1917=大正6年 将棋の阪田三吉八段と関根金次郎八段との対戦が行われた。
阪田は映画や芝居などの『王将』のモデルとされる勝負師で関根は宿敵の相手だった。会場は東京・柳沢伯爵邸で前日の午前10時からはじまり互いに相矢倉(相懸り)で一進一退の勝負を続けた。八十八手目に関根は1時間15分の長考、対して阪田は・・・開始から12時間、午後10時を過ぎたので勝負は翌日に。
この日、前日と同じように午前10時から対戦を再開、午後になっても優劣はまったく互角。百二十七手目、ついに関根が投了、阪田が48歳にして初めて勝利した。ときに午後6時30分、対戦時間は実に20時間だった。
これが芝居なら「小春ぅ、ワイは勝ったでぇ。とうとう関根ハンに勝ったんや」と阪田がうれし涙にくれるところ。芝居通りの人生だったが妻の本名は小春ではなく「コユウ」だった。長年の苦労がたたり阪田を残して亡くなるが臨終の床で「お父ちゃん、あんたは将棋が命や。どんなことがあってもアホな将棋は指しなはんなや」と言い残したと伝わる。
*1940=昭和15年 漂泊の俳人・種田山頭火の『一草庵日記』はこの日が最後になった。
冒頭に「秋祭り」とあるからずっとお祭り気分だったか。
「感謝があればいつも気分がよい、気分がよければ私にはいつでもお祭りである、拝む心で生き、拝む心で死なう、そこに無量の光明と生命の世界が私を待ってゐてくれるであらう、巡礼の心は私のふるさとであった筈であるから」
そして付け加えたのがとんぼの書きつけだった。
「とんぼが、はかなく飛んできて身のまはりを飛びまはる。飛べる間はとべ、やがてとべなくなるだろう」
翌々日10日の夜は俳句仲間が山頭火の一草庵に集まって恒例の句会が開かれたが祭のふるまい酒を飲んだのか庵主は隣の部屋で高いびきだった。句会が終わったのは午後11時過ぎ。翌朝、訪ねてきた友人が山頭火の異常に気付いたがすでに手遅れだった。
放浪と行乞、酒と句作に生きた永遠の巡礼者コロリと往生。59歳。