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“10月9日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1914=大正3年  フランスの名門ホテルで修行した秋山篤蔵が大膳職主厨長に抜擢された。

どんな役職かというと「天皇の料理番」である。宮内庁が翌年に予定されていた即位の大礼で外国からの賓客をもてなすためだった。秋山は福井県武生町=現・越前市出身、華族会館や築地精養軒料理長を歴任していたが1909=明治42年にさらに料理の腕を磨くためにフランスへ渡り名門ホテル「リッツ」で修行した。

大正天皇、昭和天皇の料理番を58年間もつとめ多くの著書を残した。杉森久英原作のノンフィクションをドラマにしたTBSの日曜ドラマ『天皇の料理番』がなつかしい。たしか秋山役がいまも料理番組で人気の堺正章でした。

*1873=明治6年  東京で広まった「兎(うさぎ)会」が年末にかけて全国的な大流行となった。

愛好者たちがいろんな種類の兎を持ち寄って毛色や美しさを楽しむものだったが「兎市」ができたことで次第に高値を競うようになった。そうなると薬品を使って<白兎>に染めるなどの偽装事件も相次ぎ強盗未遂事件や殺人事件まで起きた。

東京府は兎市禁止令を出したがいっこうに下火にならず、刑罰や兎税を課す騒ぎになった。
強盗未遂事件は神田区で起きた。兎取引でしこたま稼いだ<兎成金>の主人の留守に使用人が夫人の首を絞めようとした。夫人が大声で叫んだため隣人が駆け付け間一髪でことなきを得た。

殺人事件は四谷区で起きた。飼っていた兎の値段が150円に上がったので息子が売ろうとしたが父親が200円になるまで待てと言った。ところがその晩、兎が急死したことでけんかになり縁先から庭に突き落とされた父親が庭石に頭をぶつけて死んだことで発覚した。

刑罰が実際に適用されたかどうかはわからないが「罰金2円、杖=杖打ち60回」だった。<兎跳び1,000回>なんかじゃないですよ。

*1906=明治39年  鹿児島市内にようやく電話が開通することになった。

国内での電話事業は1890=明治23年に東京と横浜で始まった。<薩摩閥>として明治新政府で活躍した有力者が、ぜひともわが故郷にも電話をとか、あれば地元との連絡に便利だからと開設を働きかけたのか。同じ時期に方言の見直し運動も起きている。鹿児島で出版された『鹿児島語ト普通語』は大正11年までに7版を重ねた。

電話の開始に先駆けて地元紙の『鹿児島新聞』が始めた連載企画「模擬通話」がさかんに読まれた。どういう内容だったかというと、まず電話がかかってきたら「モシモシ」と話すことから始まって使われそうな会話例を微に入り細にわたり解説した。

おまんさあん、そげん、ぎゃすどん、わたしは知らはんな=あなたはそんなにおっしゃるけれども私は存じません

たしかに相手の姿を見ずにお互いの意思を伝えあうというのは<難事業>ではあったろう。だが相手に対して最初の薩摩弁ならあとがまだ続きそうだが<標準語>で答えたらなおさら揉めるどころか切られてしまいそうに思える。

この頃生まれた「薩摩狂句」に電話を題材にした句がある。
  電話口ハイ左様ならと頭打ち  頓太
深くお辞儀しすぎたわけですな。ゴツン、イタタタ・・・。

*1914=大正3年  竹久夢二が東京・日本橋呉服町に「港屋繪草紙店」を開店した。

妻のたまきは上京後に早稲田鶴巻町に絵葉書店「つるや」を開いていた。夢二は客として2ヵ月通い詰めて結婚したから港屋の運営はたまきに任せた。夢二自作の便箋や人形、うちわ、浴衣などが人気だったがそこにやって来たのが日本橋の紙問屋の娘で女子美術学校生だった彦乃だ。夢二のファンで「絵を習いたい」というのがはじまりだったがやがて夢二との交際が始まる。<女の勘>は鋭いから当然たまきの知るところとなったのだろうが、彼ら夫婦は離婚、同棲、別居を繰り返し、絶縁のきっかけになったのも夢二がたまきと画学生だった東郷青児との仲を疑ったという説もあるから本当のところはわからない。

東京を離れた夢二は京都に移り住み彦乃としばらく暮らすが、九州旅行中の夢二を追いかけていった彦乃は別府温泉で結核を発病する。父親によって東京に連れ戻され、お茶の水の順天堂医院に入院したが、本郷菊富士ホテルで待っていた夢二との面会はかなわず23歳で死去した。打ちのめされた夢二はショックから立ち直れないまま『彦乃日記』を残した。

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