“10月16日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1793年 王妃マリー・アントワネットが断頭台に上った。
フランス革命のエポックとなったできごとのひとつである。オーストリア大公マリア・テレジアと神聖ローマ帝国フランツ1世の11女だったマリア・アントニアは14歳でひとつ上のフランス王太子ルイ・オーギュストと政略結婚させられた。ヴェルサイユ宮殿で盛大な結婚式を挙げ『マリー・アントワネット讃歌』まで作られて国民から盛大な祝福を受けた。しかし宮廷の内部では「オーストリア女」とささやかれた。ことばの違いや性格の不一致などで結婚生活は<いろいろ>あったとされる。孤独を紛らわすはけ口として奢侈や賭けごとに熱中し、夜毎の仮面舞踏会で踊り明かしたともいわれるがそんなことは当時の宮廷の日常だったに過ぎない。
宮廷内の軋轢でいえばルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人との不仲があった。宮廷内が2派に分かれ、お互いを非難し合うなかで悪評の数々も誇張された。もうひとつ見逃せないのは古い権威や習慣に固執する<守旧派>との対立で、身分ごとに便器の形まで違ったとされる。4年後に夫が国王ルイ16世になると王妃として朝の接見を簡素にし、多くの会議や儀式を廃止した。特権を裏付ける習慣や立場を奪われた側にとってはとんでもなかったからこちらからも悪評が作られたフシもある。
1791年、オーストリアに亡命しようとした国王一家はヴァレンヌで捕まりパリのタンプル塔に幽閉される。しかし2年後の1793年1月、ルイ16世が裁判で政治犯として死刑が宣告され断頭台に送られたのに続きアントワネットは革命裁判で裁かれることになる。ルイ16世の場合は対外的な影響もあったから一応は正式裁判だったがアントワネットのほうは初めから「死刑ありき」の筋書きができていた。アントワネットは最悪でも国外追放を考えていたから無罪を主張し続けたが前日の10月15日に死刑判決が下された。国家財政の赤字やフランス国民の自由を破壊し王政復古を企てたというだけでなく王妃を救おうとする貴族らと連絡を取り合って逃亡を企てたことも付け加えられた。
信頼を置いていた国王の妹エリザベートに送った遺書には「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるならそれは恥ずべきものなどではない」とある。囚人番号280番、髪を短く刈られ肥桶用の荷車で運ばれたアントワネットは最後に「さよなら、子供たち。あなた方のお父さんのところへ行きます」と言い残したとされる。断頭台の手前で死刑執行人が首のネッカチーフを剥ぎ取ろうとしたので2、3歩よろけて足を踏んだのを「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」と言ったとか、うつぶせではなく落ちて来る刃が見えるように断頭台に上向きに縛られたなどの噂話の類が面白おかしく作られた。真贋入り混じった逸話、山ほどある噂話、幽閉中や引き立てて行かれる姿を描いた多くの絵画や処刑直前のスケッチ・・・わずか37年間で断頭台の露と消えた波乱の人生はまさに<いろいろ>あったわけです。
2012年10月17日、パリで「マリー・アントワネットの靴」が競売され62,000ユーロ(約640万円)で落札された。サイズ24cm、白と緑の縞模様の絹で覆われ、かかとは木製白皮巻でリボン飾りが付いている。もちろん最後に履いていたものではなく宮廷に出仕した貴族に伝わった<由緒正しい品>とか。
*1949=昭和24年 戦後の大映が総力を挙げた『痴人の愛』が封切られた。
「ドル箱スター」として京マチ子を売り出すための切り札として製作された。原作は関東大震災以後、一家をあげて六甲山麓の苦楽園に転居した谷崎潤一郎が関西定住の第一作として大阪朝日新聞と続編を「女性」に発表した耽美主義私小説の代表作である。
監督・脚本は木村恵吾、浅草のキャバレーで給仕をしていたナオミを京マチ子、電気技師の譲治を宇野重吉が演じた。会社では「君子」というニックネームで呼ばれた真面目サラリーマンの譲治が自由奔放な女ナオミを育て上げていくという<官能の世界>は当時の世相を反映して原作とは異なる良識的な結末になった。大映は1960=昭和35年にも同じ『痴人の愛』を木村恵吾の監督・脚本で叶順子、船越英二でほぼ原作通りに作りなおした。谷崎が没した翌年の1966=昭和41年にこんどは増村保造監督で安田道代、小沢昭一で3度目の製作をした。安田が新しいナオミ像を生き生きと演じて「大正時代の<ナオミズム>再現」と話題になったがナオミに<執着>していたのは<譲治より大映のほうだった>ともいわれました。
*1908=明治41年 受刑者に対する指紋押捺が始まった。
司法省がドイツ・ハンブルグ警視総監のロッセル博士の指紋法に着目した。ヨーロッパでの普及が効果をあげていることがわかったので警察監獄での実行に着手した。在監の囚人はこれを知って戦々恐々となったと伝えられるが当時は<別人>のまま、見つかった刑だけで逃れようとする輩が多かったから大きな効果を発揮した。3年後から警視庁が逮捕時点で指紋を2部取り一枚は保管して今後の指紋資料にし始めた。
指紋原紙を前にブルブル震えるのは気の弱い初犯だろうが、それまでは偽名がばれても「知らぬ存ぜぬ」を決め込んだ連中も指紋という<動かぬ証拠>に「恐れ入りました」。