“10月21日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1943=昭和18年 秋雨の明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が開催された。
参加したのは東京・神奈川・埼玉・千葉4都県の出陣学徒で6月に閣議決定された「学徒戦時動員体制確立要綱」によるものだった。理工科系統と教員養成語学校学生が外れただけでほとんどの学徒が対象になった。
翌日の毎日新聞は「召され征く出陣学徒を送る壮行の式典」としてこう書き出す。
出陣学徒壮行会は秋色深む廿一日午前九時から日頃生徒が武を練り技を競った思い出の聖域、明治神宮外苑競技場で東條首相、嶋田海相、岡部文相参列のもとに厳粛に挙行された。この日定刻八時三十分、早くも送る学徒百三十七校(女子専門学校および都下男女中等学校高学年生も含む)五万は競技場を埋め私語の囁きもなく時を待つ中に、都下および神奈川、埼玉、千葉三県七十七校〇〇名の出陣学徒部隊は執銃帯剱の武装も凛々しく場外道路に整列を終わった。
入場行進の直前から雨脚はさらに強くなった。<送る側>として動員されたのは5万人、半数近くが女学生だった。午前9時20分、陸軍戸山学校軍楽隊の『観兵式行進曲』の吹奏開始を合図に東京帝大を先頭に分列行進が始まった。学校毎に「大隊」を組織し大隊名の書かれた小旗をつけた校旗を捧げて行進した。メインスタンド中央の受礼台上の岡部文相に「頭右」を行い、場内を半周して順次所定の位置に整列していった。
「出陣学徒を眼のあたりおくる二万数千の女子学徒はみんな泣いている」(毎日新聞)
「拍手、拍手、歓声、歓声、十万の眼からみんな涙が流れた。涙を流しながら手を拍ち帽を振った。女子学徒集団には真白なハンケチの波が霞のように、花のように飛んでいる」(朝日新聞)
戦後生まれの私だから映像で見たのは「日本ニュース」ではなくテレビ番組だったろうが<雨中泥濘の行進>は彼らのその後の運命をそのまま象徴しているように思えた。水たまりの向こうを黙々と行進する学生たちは制服制帽にゲートルを巻き、銃剣付きの三八式歩兵銃を担いでいた。観客席からは軍需省が選定した『学徒動員の歌』が期せずして起きた。もとは学徒工場動員のために作られたのがこの場にぴったりと思われたか。
花のつぼみの若桜 五尺の命引っ提げて
国の大事に殉ずるは 我ら学徒の面目ぞ
ああ紅の血は燃ゆる
式典の重々しさは家族や恋人を送る女学生はともかく、ともすれば時代の空気に染まって興奮する観客に煽られた感も否めない。<晴天なら勇壮だったろう>とは思いたくないが計算外の雨のせいで悲愴感がより高まったことは間違いない。
長い長い分列行進が終わったのは10時10分、津波のような拍手と歓声が引いて静寂のうちに式次第に入った。ラッパの奏でる『君が代』、宮城遥拝、『君が代』奉唱、ふたたびラッパが『国の鎮め』を吹奏して明治神宮、靖国神社を遥拝した。岡部文相による宣戦の大詔の奉読のあと首相東条英機が甲高い声で訓示、慶応大学医学部の奥井津二が壮行の辞を述べた。出陣学徒を代表して東京帝大文学部の江橋慎四郎が答辞を朗読したがマイクに向かって声を振り絞ったその一節「生等もとより生還を期せず」を聞いた女子学徒から思わず嗚咽が漏れた。
さらに出陣学徒ばかりで編成された東京音楽学校=現・東京芸大吹奏報国隊の『海ゆかば』の演奏に合わせて大合唱。首相の発声で「天皇陛下万歳」を奉唱してようやく幕を閉じた。ときに10時50分、出陣学徒は二部隊に分かれて宮城前まで行進したが早稲田大学の隊列から『都の西北』がわき起こると女子学徒が雪崩をうって駆け寄る一幕もあったがこのシーンは新聞には書かれていない。
毎日新聞の記事は出陣学徒の人数を「七十七校〇〇名」としている。<伏せ字>だったのは他紙も同じで軍事機密として最後まで許可が出なかったのだろう。彼らは12月に徴兵検査を受けて合格者は翌年2月に入隊していった。そして多くが命を落とした。中には戦地に向かう輸送船が沈んで運命を共にし、配属されても病気などで戦わずして亡くなるケースもあったろう。あるいは特攻に志願して命を落とした者もいれば生き延びたものの戦後の極東軍事裁判でB・C級戦犯の下士官として処刑されたケースもある。<伏せ字>から始まって今も学徒出陣における正確な人数ははっきりしていないのである。
紹介したのは東京での出陣学徒壮行会だが同じ日に日本の占領地だった台湾・台北でも同じような壮行会が行われた。30日には韓国の京城で、11月3日には満州の新京・ハルピン・奉天・大連の4カ所で同時に開催された。兵力不足を補うために日本人のみならず占領下の人々も対象にされたからだ。答辞を朗読した東京帝大の江橋は陸軍航空整備兵として終戦を迎えた。戦後は東大や鹿児島大などで体育学を教え新設の鹿屋体育大の初代学長を歴任、東京大学名誉教授でもある。あの日の行進を体験した人々でのちの総理大臣の経験者もいれば各界で活躍した人も多い。しかしその何百倍何千倍もの人々が<無名のままで>死んでいったことを忘れてはならない。