“10月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1629=寛永6年 徳川幕府は京・大阪・江戸における遊女歌舞妓の興行を禁止した。
戦国時代の終わりに京で始まった出雲阿国(おくに)の「歌舞妓踊り」が一世を風靡した。阿国の興行は「異風なる男のまね」とされる。江戸時代初頭にかけて阿国を模倣して多くの一座が生まれ大都市だけでなく伊達藩の仙台などの城下町や港町、鉱山町、門前町でも興行が行われた。佐渡島正吉、村山左近、岡本織部、小野小太夫、出来島隼人、杉山主殿、幾島丹後守と『慶長見聞集』に残された名前はどこかの大名のようだがすべて人気女役者である。男装して面白おかしく舞い、新しい楽器の三味線などを弾いて歌などを披露した。
「かぶき」は「<歌>い<舞>う芸<妓>」からとった歌舞妓が変化したとも、異風の傾(かぶ)く風俗からきたとも。出来島隼人一座は21年前の1608=慶長13年にも家康よって駿府=静岡から「淫佚(いんいつ)である」として追放された。言い換えると<卑猥>あたりが適当だろうが人気役者の興行には数万人が集まり見物客の争いが絶えなかった。女歌舞妓追放では遊女が芝居に出演することや女舞い、女歌舞妓、女義太夫まで全面禁止となった。江戸から<追放>されたのは座を代表する「おしょう=和尚」と呼ばれた太夫30人、その他も百人に及んだ。これ以後は遊里の踊りなどで細々と伝えられ、代わって男役者が演じる「若衆(わかしゅ)歌舞伎」が人気になっていった。
寛永年間は三代将軍家光の時代だが駿府時代の家康にしても民衆のエネルギーはたちどころに不満のはけ口や権力批判として<暴発>することを防ごうとしたとはいえまいか。
*1889=明治22年 東京・熱海間に電信線が開通した。
20年前の横浜までに続いてようやく熱海まで開通したが当時の人々にとっては電線一本で相手に信号などの情報を伝える「電信」という通信手段がどうしても理解できなかった。弁当持参でやってきて空中の電線とにらめっこし「手紙はまだ通らないのか」といぶかしがった笑い話などが残る。
戦後、逓信省が郵政省と電気通信省に分割されたことから電気通信省独自の記念日として制定され長く電気通信記念日とされていたが1956=昭和31年に「電信電話記念日」に改称されたというのが豆知識。
*1669=寛文9年 最後のアイヌ民族蜂起「シャクシャインの乱」が松前藩の謀略で終結した。
シャクシャインはシブチャリ=現・日高支庁・静内(新ひだか町)の首長だった。伝説では三人兄弟の長男。「体駆巨大、容貌魁偉で走ること飛鳥の如し」とされ、静内の染退(しぶちゃり)から登別までを一日で往復した。片道でも百数十キロあるから話半分としても相当な健脚には違いない。
蜂起に加わったのは太平洋岸の白糠=釧路市と日本海岸の増毛を結んだ北海道の西半分に住んでいた「シュムウンクル=西の人」と呼ばれた集団である。直接の原因は同じ日高の首長ウトマサが交易に出かけた松前城下で急死した。これを知ったシャクシャインは毒殺されたのに違いないと激高した。背景には交易を巡って松前藩がこの年、物々交換の比率を極端に下げたのと積もり積もった松前藩の暴力的支配があった。反旗を翻したシャクシャインは各地に檄を飛ばす急使を走らせた。
「松前藩の非道は日を追ってひどくなっていく。和人はいまやわれわれアイヌ同胞を全滅させようと策略を企てている。ウトマサ毒殺が何よりの証拠ではないか。われわれを殺してこの大地を奪い取ろうとしているのだ。いまこそアイヌ同胞は立ち上がらねばならない。松前に攻め入り和人を一掃しなければゆくゆくはひとり残らず殺されるぞ。命をかけて立ち上がれ、武器を取って!」
奥地に入っていた和人の砂金掘りやタカを捕まえる鷹とり、やってきた交易船を襲った。死者は太平洋岸の各地で百数十人、日本海側で百五十人以上とされ、交易船も20隻近くが襲撃されるなど緒戦はシャクシャイン軍が優勢だった。松前を攻めたのは約2千、対する松前軍は半分だったが山刀や槍に弓矢だったシャクシャイン軍に対し、鉄砲などの火器で持ちこたえた。季節はやがて厳しい冬、長期戦になると援軍があるといっても松前軍は圧倒的に不利だった。
再三の和議申し入れに耳を貸さなかったシャクシャインだったが息子のカンリリカの勧めもあって総勢16人で城下に入り松前藩側と和議の条件をやり取りした。一行はそのまま引きとめられ和議の酒宴につく。酒が回ったところで隠れていた討伐隊がいきなり彼らを襲いシャクシャイン以下14人が惨殺され2人が捕虜にされた。宝物の大小の刀をはじめ武器を差し出して一同は丸腰だったからさしものアイヌの英雄もひとたまりもなく酒席は一瞬にして血で染まった。
「寛文蝦夷蜂起」とも呼ばれたこの乱以後、松前藩はアイヌの各首長に再び抵抗するようなことがあれば「神々の罰を蒙り子孫まで絶え果て申すべく候」という約定を結ばせている。ここにいう神々はアイヌの神=カムイでないことは明らかで露骨で不平等極まりないものだった。