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私の手塚治虫(10) 峯島正行

「人間ども集まれ」の完結

「人間ども集まれ!」表紙

「人間ども集まれ!」表紙

  
漫画集団の筆法
 
手塚治虫は成人漫画の作成には、彼のいわゆる、シチュエイション・マンガ手法を、多用したということを、前回、詳しく述べた。
手塚は成人漫画を描く場合、もう一つの特徴ある手法を併用した。それは手塚においては従来の少年少女向きの作品と違った画風と表現法を用いたという点である。
 その画法を以って、「タダノブ」「人間ども集まれ」「上を下へのジレッタ」等の作品を描いて貰った。
手塚は講談社版、手塚治虫漫画全集の「人間ども集まれ」(二)の「あとがき」において、次のように述べている。少し長いが、成人漫画についてのべることが少ない手塚が、重要な事を言っているので、そのまま引用する。
「そのころの週刊漫画サンデーは今みたいな劇画誌ではなく、漫画集団の作品を中心としたユウモア・ナンセンスものの専門誌でありました。
(成人漫画を)なぜこういう画風でこれらの作品をかいたか、という点については、たしかに漫画集団の人たちの画風の影響をうけていることは事実ですけれども、何よりも、それまでの僕の漫画の画風に限界を感じていたからです.子どもむけ、あかぬけしない、ごちゃごちゃしたペンタッチから、抜け出したいと思っていたからです。
それが成功したかしないかは別として、手塚治虫の漫画にしては、どうもあらけずりな、かきなぐりのようなペンタッチである、と批判もされたりしました。
漫画家もだんだん年をとっていくと、若い時のようなこまかな線がなかなかかけなくなるといいます。ぼくの場合、たしかに目が悪いせいもあって、細かいペンタッチには次第に苦痛を感じてきたわけで、この「人間ども集まれ!」や「フウスケ・シリーズ」のような書き方は、たいへん、気をはらずにかくことができました。ただ、たくさんの子供むけの連載漫画をかかえているなかに、ひとつやふたつこのような画風を変えて書くと、どうしても劇画風のペンタッチがまぎれこみます。「人間ども集まれ!」にも、そんなごたごたした部分があちこちにでています。」

これはよく、手塚の成人漫画の画風をよく表した言葉といえよう。
漫画集団の漫画の画風は、それぞれ漫画家個人によって、個性は強く持っているものの、共通した画風とムードをもっていたことは確かであった。これは集団発足して以来、かれらが努力して作り上げた、「絵の筆法」である。
 ポンチ絵を滅ぼす

漫画集団が、誕生する前の漫画家は、日本画家が内職に書く場合とか、或いは日本画家から、漫画家に転職した人も多かった。
「時事新報」の専属漫画家として有名だった北沢楽天の漫画を見ても、風刺を効かした「本画」であるというべきものだろう。今日的感覚からいうと「漫画」とは違う。
また近藤日出造や杉浦幸雄や横山隆一を育てた、近代漫画の親ともいうべき岡本一平でさえ、最初から漫画家たらんと志したわけではなかった。初めは夏目漱石の小説の挿絵を描くために、漱石の推薦で朝日新聞社に入社し、その後漱石の漫文の挿絵を描き、これを漱石が絶賛し、その後押しで漫画を描くようになったわけである。
この二人の大家のほかに多くの漫画家が生まれたが、総じて、漫画家たらんとして、漫画家になった人は少ない。多くは本画家のなれの果て、といった感じの人が多かった。その作品も人物や事物を茶化して、滑稽に描くという、感じのものが多かった。それは漫画の笑いとは異なるものと言えよう。

そして総じて、当時の漫画の役目は、ジャーナリズムの脇役、主役の添え物、飾りのような役割しか与えられなかった。
当時のジャーナリズムの主役というか、主流というか、その役目は、新聞であった。雑誌や、その他の出版物においても漫画は使用されることがあったが、いつも添え物の役しか与えられなかった。漫画はその新聞、その他の脇役であり、埋め草だったのだ。
そのためだろうか,明治から大正、昭和に入ってまで、彼らはジャーナリズムからも、蔑まれた存在であった。
その絵はポンチ絵と呼ばれた。その語源は、イギリスの漫画雑誌「パンチ」に由来するといわれるが、その辺を詮索していると、また時間も手数もかかるので、割愛しておくが、「お前の顔はポンチ絵みたいだ」ということは、相手を侮辱したことだった。
今日「君の顔はブラックジャックに似ている」あるいは「君の子供はアトムに似ているね」というのとでは、意味が正反対であったのだ。
たしか飯沢匡が伝えていたことだったと思うが、昭和に入ってから、ある日、編集室に伝言板の黒板に、「本日何時、ポンチ絵来る予定」と書いてあったという。
つまり記事のカットに漫画を頼みたい記者とか、漫画探法などの記事を企画している記者など、漫画家に用のある記者のための伝達であったのである。電話が自由に使える今日と違って、電話の普及が進んでない時代らしい話だとしても、岡本一平という有名漫画家さえ、ポンチなどと、黒板に書かれたりすることがあったということである。
明治の小説に、あいつのポンチ絵をかいてやった、などという表現があるが、これはたとえ冗談にそう言ったとしても、相手を侮蔑した表現であった。「漫画で似顔を書いてあげよう」という現在の言葉とは、まったく意味が違うのである。

ポンチ絵的侮蔑語が亡くなったのは、漫画集団が、ジャーナリズムの人気者になって以後のことだろう。しかしポンチ絵的侮蔑は、なかなか消えなかった。
西川辰美がよく言っていた。「戦前のことですがね。国勢調査があるでしょう。役所から調査用紙が配られてきて、それに家族のことを書きこむのですが、職業欄という枠もあるのです。そこに八百屋とか大工とか書くのですが、その用紙について来る職業分類には、漫画家という職業はないんです。
そこで役所に何と書いてよいのかと問い合わせると、こっちの仕事の説明を聞いた後、そういう仕事なら「画工」とでもしておいたら、という返事だった。
つまり漫画家という職業はなかったのですよ。
 
そう言う状態から、漫画家を堂々たる文化人の職業として、世間にも、お役所にもみとめさせたのは、近藤さんや横山さん達なんですよ。つまり漫画集団の漫画が世間の人気を集め、文化的役割を果たしたことによってなのですよ」
と西川は言っていたのである。

 モダニズムの先端をゆく

昭和七年頃の近藤日出造の作品 ガルフォ・ファン シネマ館の前で、彼を待つ彼女です

昭和七年頃の近藤日出造の作品 ガルフォ・ファン シネマ館の前で、彼を待つ彼女です

西川の言はともあれ、昭和七年、発足した漫画集団は、すくなくとも、ポンチ絵的な感覚を一掃したのであった。彼らの絵は、今までの筆を使って描いた日本画的な漫画に対して、ペンとインキによって、欧米のナンセンス漫画に見られるよう細い単純な線画による描写に、一変させたのである。しかもケント紙という真っ白な用紙に描いたのである。それによって、絵の雰囲気が一変したのである。   
そして、画の中では、描く対象をできるだけ単純化し、その形態は一本の線で描き出すという手法をもってしたので、当時の読者には、たいへん新鮮に見えたに相違ない。
背景など必要限度しか描かない。なくてすめば最初から書かない。
そして描く内容は、人間生活をしている中で、思わず笑いたくなる材料を、タイミングよくとらえて、一目で読者を笑わすという手法であり、また人間生活の空間の現象、つまり国家の政治、経済から、朝起きて朝飯を食い電車にのって通勤する、日常茶飯事まで、すべてを同一線上において、近代的批評精神で風刺し、ユウモア化して見せる、これが漫画集団が始めた日本のナンセンス漫画の手法であった。つまりペンをつかった短純な線を以って、描く対象を掴み、人間生活の虚をつくという表現法を編み出した。
もう一つ、ナンセンス漫画の特徴は、絵の中に登場する人物がしゃべる、吹きだしの言葉を、作者自身がペンでかいた。それまでの漫画は日本的な絵のわきに、活字で、説明文をながながといれるとか、絵の枠内に書くとしても印刷文字で、説明文を書いたものが多かった。
それを漫画集団の単純な線画の中で、吹き出しの文字を作者自身で描きいれる手法を使った。
これらの手法で、スピード感と軽快感を読者に与えた。
集団に集まった若者は、共同で行動する術を知っていた。彼等は共同制作、共同販売の売り込み方を発明した。適任者を担当マネージャーにして、会員の知っている雑誌社や新聞社に共同で売り込んだ。
これが当時のジャーナリズムの話題を呼んだ。しかも描かれた絵は、青年らしい活気に満ちた斬新な手法による、一見爆笑のナンセンス漫画であった。
忽ち彼らの作品が、ジャーナリズムの漫画領域を占領する事態となった。

昭和初年は、西欧的な生活文化が謳歌されたモダニズムの時代であった。文学では、横光利一、川端康成、中川与一などの新感覚派の登場、風俗的には、モボ (モダンボーイ)やモガ(モダンガール)を生んだモダーン感覚の隆盛、大衆演劇でも浅草では本格的なオペラが、群衆を集めると同時に、それを皮肉ったエログロな演劇の興行も盛んになり、盛り場ではカフエーが流行するといった世相になっていった。
 漫画集団の漫画は、この時代の軟派風潮にぴったり合った。モダンではあるし、エロでもグロでもなんでも来い、という調子の良さがあって、人気ものになった。昭和八,九年から、「エロ、グロ、ナンセンスの時代」だといわれたが、エノケン、ロッパのユーモアあふれたミュージカルとともに、ナンセンスの漫画集団は、時代の人気者であった。
 ある日浅草の劇場で、ラインダンスの踊り子が、パンテイを、舞台の上で落としたのを見たという噂が広がって、翌日から観客が押し寄せたという、そういう時代であった。
 
集団のナンセンスの絵は、戦後引き継がれて、新漫画派集団が、漫画集団と名前を変更しても、人気は衰えなかった。従来の漫画家に、加藤芳郎、横山泰三、荻原賢治、岡部冬彦、六浦光雄、小島功などの新鋭が加わり、さらにそのあと馬場のぼる、富永一朗、サトウサンペイ、さらに若い園山俊二、東海林さだお、秋竜山など、あたりまで、紹介しきれない位、多くの才能を生んできた。
 そしてそれらの人たちは、集団らしい画風を作り上げてきた。
 成人漫画に参入の労苦

子供漫画の先駆者として、ほとんど子供向けの漫画ばかり描いてきた手塚が、集団の中に入って、その集団が作り上げた画風で、長編物語漫画を創造しようとするのだから大変であった。
「人間ども集まれ」を描いたころは,すでに児童漫画の第一人者として多くの作品を完成させ、現に何冊もの連載マンガ執筆中であった。また一方で虫プロというアニメーションの、「大工場」を抱え、自ら描き且つ運営していたのである。
  だから担当編集者が、手塚の原稿を貰うのは大変だった。連載、読み切り合わせて、目いっぱいの仕事を抱え、アニメーションをかくのだから、各出版社の編集者の、「原稿取り競争」は大変なもので、それに関して幾多の逸話や伝説が残っている。
 その編集者の苦労話が何冊も本にされて、出版されている。例えば『神様の伴奏者』(佐藤敏章 小学館) 『1億人の手塚治虫』(1億人の手塚治虫編集委員会、gicc出版局)『ブラック・ジャック創作秘話』(宮崎克,吉本浩二 秋田書店)などなど、これに類する本や雑誌の特集が、幾つも世に出ている。いかに手塚の原稿を入手するのが困難であったか、証明されているわけだろう
 その大多忙の中に、新たに、成人向けの野心作を書くことが加わったのだから、その執筆時間の捻出が大変であった。
 
それに加えて、成人漫画執筆については、もう一つ難関があった。手塚は漫画集団流の絵で成人漫画描くと決意していたのは前に述べたとおりだが、そうなると児童漫画と違って、吹き出しの文字がすべて、作者の手書きである。この吹き出しの文字にも作者の個性が出て、漫画を面白くしていると評論家筋にもいわれていた。漫画評論の中に、そのことを論ずる評論家もあったくらいであった。
普通の児童漫画は、吹き出しの文字や、一コマの中に説明文があれば、すべて、写植印刷であった。この場合はまず漫画のこまわりを決めて、吹き出しの囲みまで鉛筆で下書きをする。
 吹き出しの中に書く文字は、別原稿にして、写植にする。編集者は写植にする文字原稿を写植工場に回して写植版を作る。その間に先生はマンガの絵を完成させて、編集者に渡す。これで漫画家の仕事は終わる。
 編集者は写植の活字原稿を切り抜いて、吹き出しに貼ってゆく。貼り終わると原稿の上がりである。
 この場合下書きさえできれば、後は画を完成させるために、下書きにペンを入れてゆけばいいわけである。その時にアシスタントが手伝うわけである。というかアシスタントがペンを入れてできたものを先生が、最後に訂正の筆を入れて画の完成となるわけである。
 だから、下書きと吹き出しの文字が決まりさえすれば、先生は次の仕事に移れるわけである。
 しかし、吹き出しの文字を先生が書くとなると、すべてを先生がやらなければならない。吹き出しの文字さえもらえば、まずは、一安心という、児童漫画の場合とちがって、分業化、アシスタントの手を借りる部分は少ない。
 そういうわけで、その週締め切りの、児童漫画の連載物がすべて書き終えた後でないと、成人漫画の仕事に入れないという不利な点があった。その為に「漫画サンデー」の担当者は、それだけ苦労が多かったのである。

 そういう悪条件のもとに長編「人間ども集まれ」がはじまったのだが、担当者も編集部も苦闘の連続であった。その苦闘ぶりを、当時の担当編集者遠山泰彦が、後年若者のために経験を書き残した文章がある。今ここに本人の承諾を得てその一部を引用させてもらう。

「それにしても、あんなに多忙なのによく連載執筆をオーケーしてくれたものです。毎日不眠不休で描きつづけていて、もはやスケジュール調整不可能状態のところへ『漫サン』が割り込んだのですから、しかもこれが週刊誌で毎週、締切があるのですから、これはもう大変なんてものじゃありません。逆に言えば、それだけ手塚先生に大人漫画へのチャレンジ意欲が旺盛だったということでしょう。案の定、連載スタート直後から毎週これ以上遅れたらもうダメというきわどいところでようやく書きあがるという、すれすれセーフの連続になりました。初の長編大人漫画ということで先生も模索しながら描いていたのでしょう。絵のタッチは意識的に変えていました。非常に白っぽいさらさらした絵でした。それにテーマがセックスです。ですから、少年漫画の合間には書けないということで、毎週他の連載をすべて片づけてから頭を切りかえて最後に取り掛かるので、どうしても遅くなってしまうんですね。
 そのころ編集会議はいつも月曜日で、連載物の締め切りは木曜日、金曜の夜には校了という進行でしたからどんなに遅い漫画家でも木曜の夜までには書いて貰いましたが、手塚先生だけは、早くて金曜の夜、たいていは真夜中か土曜の夜明け方でした。しかもそのためには手塚邸に月曜日から詰めていないとダメなんです。それで、編集会議が終わると、すぐ着替えを以って手塚邸に行きます。手塚邸には編集者のための待機部屋があり、何時も何人か編集者がいて花札をしたりしていました。時には深夜、先生の奥様がアシスタントや編集の人たちのためにラーメンを作ってくれることもありました。こんなふうに金曜の深夜ようやく原稿を貰うと、すぐさま印刷所へ届けて、それから家に帰ります。次の月曜部に編集会議が終わると、また手塚邸に行くという、そういう暮らしを1年半ぐらい続けました。いかにも辛そうで、大変そうに聞こえるかもしれませんが独身の私には、これが結構面白い仕事だったのです」

 このようにと遠山が書いているが、こんな惨めな生活を、大學出たての白面の青年たちに強いなければならなかったことを思うと、年老いた目に涙がたまりそうになるのを禁じ得ない。
 遠山は続いて書いている。
「私が手塚先生の担当になってから、長編の一回目を貰うまで、八か月ぐらいかかっています。先生はその間、何度も『では何月何日号からはじめましょう』といってくれましたが、結局やってくれない。私も先生のスケジュールを調べ、事前に調整しておいたりして万全の準備をしたつもりなのですが、それまで描き終えるはずだった分が終わらず押せ押せになって結局書いて貰えない。今度は時間的にゆとりがあるから大丈夫なんていうときは、いつのまにか外出して映画なんか見に行っちゃう。で、やっぱり押せ押せになる。私もそのつど、『今度こそ大丈夫です』なんて編集長に報告していますから、煮え湯を飲まされた思いで、もう合わせる顔がありません。
 そうしたら、あるとき編集長が『あのなあ、約束したから原稿ができるわけはないだろう。書く気にさせなきゃだめだよ。どうやったら描く気になってくれるか。おだてたって言い、怒ったっていい、泣いてもいい,なんでもいいから描かなきゃという気に追い込むんだよ。原稿取りは論理学じゃない、心理学だよ』とアドバイスしてくれました。(論理学じゃない、心理学だよと私が言ったことを今でも鮮明に覚えていてくれて、なにかというと、このことばをだすが、遠山は教育大の社会学専攻                                             の学生気分の抜けない男であったから、論理学じゃない、心理学だなんて、ぺダンチックなジョークをわざと使ったことを覚えている)編集長のそのアドバイスは目からうろこでした。それからは、からめて作戦を重視することにして、当時は先生のご両親も一緒に住んでおられて、よく邸内でお見かけしたので、つとめて話し相手になって、好感をもたれるようにしたり、ふたりのお子さんがまだ小さかったので、庭で一緒に遊んであげたり、アシスタントの人たちを連れてスケートに行ったり、旅行に行ったりなんていうことをしました。直接、接することがあまりないので、間接的に『漫サンの遠山』をアッピ-ルしようとしたわけです。ただし、そんな努力をしたことと新連載が取れたことと関係があったのかどうか、それは全然わかりません。
 実は手塚治虫作品リストをよく見ると一九六六年(昭和四一年)は「漫サン」に三月、五月、七月とそれぞれ読み切り短編を、また一二月には三回連載の作品を描いています。先生が、一年間にこんなに何本もの大人漫画を描いたのは初めてです。翌六七年一月から『人間ども集まれ』がスタートします。ですから、もしかすると、先生は私のお願いなんかと関係なく、六七年から『漫サン』に大人漫画の長編連載を始めると決めていて、六六年に描いた短編群はそのためのトレーニングだったのかなと思っているのです。」
 この遠山の文章の最後のところは、前号に描いたことと矛盾するようですが、私は確かに、六六年正月前後に六七年から長編を描く約束をとりましたが、その通りに行くかどうかが、自信が持てなかった。長編のまえに短編を幾つか書いてくれという約束もしました。遠山が四月に入社し手塚の担当者になった時、とにかく一刻も早く長編をとること、その前に時間つなぎ的な意味で、短編を書いて貰うように、命じたのだと思います。ほぼ半年強のあいだに、三回連載の中編を含めて、四本の中短編をとったということは遠山の努力のたまものであると思っている。六七年の正月から、長編連載を始められたのは遠山の大功績と、私は思っている。
 というのは最近発見したのだが、この長編の背後には、たいへんな思想的文学者の著作があったのではないか、ということだ。いずれ、後の章で詳細に検討するが、その思想的文学は、一九三〇年代、ナチスに抵抗したチェッコのカレル・チャペックの作品ではないかと思う。手塚はあの多忙な仕事の間に、この作家の膨大な作品を読んで、構想を練っていたと思われる。
 その意味で、この作品は思想漫画ともいうべき作品だと思うのである
 発売が間に合わず

さて、長編の連載が始まってからの担当者と編集部員の協力と努力は、一層強くなった。
或る金曜日の深夜、一二時近く、編集部に待機している私に、遠山から電話がかかった。今手塚先生が、眠気覚ましにチョコレートが欲しいといってるんですが、この辺を探しても、そんなものを売っているところはないんです。どこか手にいるところはないでしょうか」
これは難題である。銀座にある編集部の近所でも。一二時近くに菓子など売っている店はない。まだ深夜営業のコンビニなどなかった時代である。そこで浮かんだのは、銀座の高級クラブでよく酒のつまみに、ツブツブのチョコレートを出しているところがったことだ。あれを分けて貰えばいいかもしれないとおもった。そこで知るっているクラブに電話をかけたが、営業時間が11時30分に決まっていて、閉店になっている所が多く、たまたま営業をしている店があっても、そのマネージャーにうちでは、チョコレートを出していませんと言われ、私としては万事休す。
その結果どうなったか知らないが、とにかく原稿は入った。おそらく、遠山や手塚プロの人が、チョコレートの代わりにラーメンか寿司でも出前させて、その場をしのいだのだろう。
これが伝説化し。遠山が前日子供のためにチョコレートを買ったのを思い出し、車で横浜の家まで、それを取りに行ったという伝説が残った。そんなことはあり得ない。彼はまだ昨年卒業したばかりで、独身であったからである。とにかく手塚は疲労してくるとチョコレートをほしがることがあったらしい。
いつ頃のことか忘れたが、校了日が過ぎても、原稿が一枚も取れないということがあった。土曜日の深夜、今原稿がはいらないと、明日の朝のトラック便に何万部乗せなくては、配本が間に合わない、というぎりぎりの時間であった。遠山にもう今号は休載にするから、その旨を先生に伝えるように電話した。すると遠山から電話があった。今から大至急かくと先生が言っている、もちょっと待ってください、という。
私は大日本印刷の出張校正室で校了事務に当たっている編集次長に連絡をした、もはや絶対の時間切れである。私は遠山に最後の連絡をした。
「今号は休載に決定したから先生に連絡してくれ。」
その手続きをデスクと連絡をしていると、遠山から電話がかかった。
「先生とアシスタントが消えちゃったんです。おそらく僕と編集長と連絡の電話をしている間に、ここを出ちゃったんだと思います。みんなはタクシーで、そっち(編集部)に向かっていると思います。そっちに着いたら先生と話してください。」
 さすがの遠山の声も上ずって、泣きそうな声である。編集部で残りを描くということだろう。それにしても間に合わない。手塚が到着したら、その旨を話して休載することに決めていた。休載についてごたごたやっているうちに,手塚が数名のアシスタントを連れて、守衛に案内されて、どかどかと編集室にやってきた。
 私が、手塚に話かけようとすると、手塚は物も言わず空いている他の部の席に座ってしまった。その周りをアシスタントの青年が取り囲むように席を占めた。手塚は肩をいからして威厳を示し、ものも言わずに、原稿を書き始めた。唖然とした私が、声をかけても返事もせず原稿を描き続ける手を休めることもない。
 そこで私は、覚悟の臍を固めた。雑誌の発売時間の遅延である。
 今思い出してみるとどのくらい時間がかかったか、もう忘れたが、原稿が出来上がると、それを無言で、戻ってきた遠山に渡し、さ、さ、さと、帰り支度をして、大波が引くように、一同は編集室を去った。
 これで半日以上週刊誌の発売が遅れることは確かであった。週刊誌の販売遅延等あってはならないことである。それが起きてしまったのである。その損害は、販売量の激減はもとより、運賃、人件費その他を含めた多額の損害、その責任は私にある。
 私は、こういうことで編集部員が、非難されるのを慮って、翌日の編集会議を延期したばかりでなく、出社せずに自宅に待機するように、編集部員に言った。
 二,三時間睡眠の後私が出社すると、本社の販売本部長が私を待っていた。ある程度気脈の通じている本部長は、大きな目玉をぎょろりとさせて、睨めつけた。そして
「二度とこういうことの無いように」
と言って去って行った。
次にやってきたのは大日本印刷の営業本部長であった。これも若い時からの付き合いで、社内の出世頭であった。これも鷹揚に「困りますな」という。
「手塚さんにあんなことの無いように大日本印刷から正式に言ってくださいよ」
 そんな話の末帰っていった。大日本から手塚プロに正式な申し入れをしたかどうか、それは知らない。
 ともあれ非難ゴウゴウたることもなく、至極冷静にことは終わった。

「人間ども集まれ」の担当者は、人事の事情から、昭和四三年の春から、担当者は遠山から、中村俊一に変わった。
 中村も遠山と全く同じ苦労をして、六八年七月二四日号で長編連載「人間ども集まれ」を無事完成させた。完成までにどのくらい担当者と編集部員が苦労したか、ということは、次の事実からも知れよう。
 連載は毎号一〇頁の約束だった。一〇頁を描いたのは全六五回のうち一四回しかない。そのうちには一二頁、一一頁とサービスしている回もあるが、大抵は一〇頁に満たない。一番多いのは七,八頁で、三四回に及んでいる。たった四頁、五頁の週もあった。何れも時間切れで終わりとなっている。
 それでも手塚も編集も忍耐して、この未曾有の作品をよく終わらせたと思っている。
 「人間ども集まれ」はたんに漫画として成功しているばかりでなく、チャペックの「山椒魚戦争」「RUR」と並ぶ、人類の本質に迫る第一級の思想物語だと、私には思われる。次回に、そのことを考えてみたい。
 
 この「人間ども集まれ」を終結させた担当者中村俊一は、その後、七五年四月、「一輝まんだら」が終結するまで、足掛け八年間、手塚の担当を続け、その間に「上を下へのジレッタ」「サイテイ招待席」(フウスケもの)など力作、傑作を生み出している。その漫画に対す功績は実に大きい。彼が手塚からとった作品は逐次紹介してゆく。

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