ジャパネスク●JAPANESQUE かたちで読む〈日本〉 1 柴崎信三
文芸、美術、写真、建築、映画などを通してあらわれた〈日本の図像〉にまつわる、小さな物語を読み解いてみたい。〈日本〉という場所をめぐって繰り広げられたあこがれや屈折など、一世紀の表象のたたかいはグローバリゼーションの下のこの国のいまに重なる。〈日本〉はみずからをどのように伝え、それが世界にどのように受け止められたのか。〈ジャパネスク〉の表現を通して、20世紀のこの国の人々の隠された風景に光をあてる。
〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。
1 〈望郷〉について
モンパルナスの光と影
パリに住む美術プロデュサーのヘレン・ザーディは2011年春、サントノーレ通りの画廊で、埋もれていたベル・エポックの画家、板東敏雄の個展を開いた。おそらく没してからのちのパリで初めてのこの画家の個展である。板東は「エコール・ド・パリの寵児」と呼ばれた藤田嗣治とともに同じ時代を異郷に生きた日本人画家のひとりだが、いまはその作品はもちろん、板東という名前自体を知る人も、おそらく少なかろう。
留学した東京芸大で日本美術を学んだヘレンは、美術品競売会社のサザビーズで多くの作品の流通にかかわりながら、フランスのこの時代に生きた日本人画家の作品や消息を訪ねてきた。そのなかで出会ったのが板東敏雄という画家の境涯と作品である。
「〈寵児〉となった藤田の周辺にはモジリアニやパスキンといった、1920年代を中心に世界から集まったエコール・ド・パリの画家たちがいましたが、同じように藤田の後を追って日本からやってきたたくさんの〈小さなフジタたち〉がいました。そのなかでも板東は作品的にも、実生活の面でもきわめて藤田に近い存在だったといえるでしょう」
いまはほとんど知られていない〈Bando〉の名前は、国や時代を超えて世界の芸術家を網羅した美術辞典とされている「べネジット」で調べると小さな記述があった。それをたよりに調べてみると、フランス人の未亡人と娘がパリにいることがわかった。所在を訪ねあてた1994年、晩年の未亡人の手元に200点ほどの作品と、板東が遺した戦間期から第二次大戦後にかけた日記が残されているのがわかり、その記憶を聞きとってきたのである。
渡仏して「乳白色の肌」の裸体画で脚光を浴びる藤田の影に寄り添うように生きた板東の作品は、静物や風景、犬などの小動物を繊細で静謐な筆触で描いたものが多い。藤田を売り出したシェロン画廊と契約して日本人画家としての一定の評価を得ながら、板東はふとしたすれ違いから藤田と決別して、パリで孤独な画業を続けた。フランス人女性と結ばれて娘が生まれ、日本が敵国となった戦時下もフランスにとどまった。1973年にパリの自宅で階段から転落して78歳の生涯を閉じるまで、ついに帰国することはなかった。
ヘレンは板東の自画像のダンディで孤高なたたずまいが伝える、作品の独特の静けさに惹かれた。その一見平穏な境涯に浮かび上がる藤田との離別は、パリに埋もれたこの画家の大きな転機であったろう。海老原喜之助、岡鹿之助、長谷川路可、小柳正といった、藤田の周辺に集った若い日本人の画家たちのなかでも、板東はこの「エコール・ド・パリの寵児」となる巨匠ときわめて親密なかかわりをもった一人であったからである。
1895(明治28)年に徳島県で生まれた板東は、上京して川端画学校で藤島武二に師事した。23歳で文展(文部省美術展覧会)に入選したのち1922年にパリへ渡った。
フランスの土を踏んだその足ですぐに画学校で同期だった上山二郎を訪ねている。「日記」には渡仏した板東が上山の紹介で藤田と出会った場面がある。作品を見ての帰り道、すでに日本人の留学生たちから「先生」と呼ばれていた藤田の作品を「下手だ」と批判して上山にたしなめられ、それをきっかけにして始まった藤田との交流は、10歳ほどの世代の隔たりを超えて急速に深まった。当時の藤田の恋人だった伝説のモデル、キキを交えて頻繁に食卓を囲み、アトリエを訪ね合って時間をともにする。遠く日本からやってきた若い画家たちのモンパルナスの青春は、燦々と輝いてことであろう。
藤田の名声はますます高まって1925年にはレジオン・ドヌール勲章を受章するが、地方へ一緒に旅をするなど親密なかかわりを深めていた板東との関係は、そのころある事故をきっかけに暗転して離別に向かう。1924年、郊外で藤田を後ろに乗せた板東のオートバイが事故を起こし、藤田が脚にけがを負って病院に収容された。以来二人は不仲となり、藤田は右岸パッシーに転居、板東もパリの郊外へ住まいを移して袂を分かつのである。
それにしても、この離反はいささか唐突である。何があったのだろうか。
「板東は藤田のモデルのキキを通じて写真家のマン・レイとも懇意になり、ポートレートも撮ってもらっています。板東が撮ったキキの写真や彼女からの手紙、キキをモデルにした裸婦像も数点残されています。藤田との付き合いのなかで、作品への影響とともにキキやマン・レイとのかかわりが深まっていったようです。さらに当時藤田と不仲になっていた妻のフェルナンド・バレーとの関係も影を落としているようです。のちに藤田が再婚するユキからも、板東が嫉妬された形跡がうかがえます」
年上のモデルだったフェルナンド・バレーは、無名のころの藤田の苦しい生活を支えた。しかし藤田の名が高まるにつれてそのうるわしい男女の関係は崩壊する。バレーはやはり藤田の周辺にいた日本人画家の小柳正と不倫関係に陥り、藤田も傷心をいやすように、シャンゼリゼで浮名を流す文学少女のユキに心を移してゆく。そんな修羅場のただなかで起きたオートバイ事故は、男女関係が絡んだ互いの「才能」をめぐるゲームに発展して、板東と藤田の間に抜き差しならない対立をよびおこしたのだろうか。
「才能」をめぐるライバル関係の深まりが、異郷の二人を引き裂いたのではないか、とヘレンがみるのは、当時のパリの新聞には板東の作品を絶賛して「フジタのライバル」と見なすような記事が散見されるからである。
渡仏して間もない時期の板東の作品には藤田の影響が色濃く残されているものの、やがてそのミニアチュア(細密画)風の画面は独特の素材と色調によって「Bandoの世界」が形作られていく。
〈ここでは藤田と板東の絵を比較するつもりはない。しかし、板東は日欧美術界に第二の段階を築く才能を秘めているようだ。板東はデッサン画家というよりは本格画家としての素質を持っている。藤田風ではなく、被写体を忠実に描いている。ヴォリューム感を大切にして、三次元の世界へ到達している。自分のアイデンティティーを失うことなく、筆触はほとんど欧風である。超現実主義的な才能とともに、描かれた帽子の藁や婦人のケープの毛糸、陶器の冷たい硬さなど、完璧なほどの素材感がうかがえる〉
当時、有力だった評論家のアンドレ・ワルノが《アヴェニル》紙上に書いたこうした記事を通して、ヘレンは板東が当時パリの日本人画家のなかに置かれた立場を想像する。
板東は藤田と出会った1922年から1929年までの間に、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・デュ・チュルリーなどに出品し、ワルノをはじめとするフランスの画壇の周辺ばかりでなく、イタリアやベルギー、米国でもその画風に注目する評論家があらわれた。藤田と袂を分かってから1931年まではシェロン画廊と契約し、200点ほどの作品が売られているのをみれば、一定の評価を得た日本人画家であったのだが、それ以降も作品に「寵児」である藤田との対比が終生にわたってつきまとったことが、板東の運命を大きく動かしていったことは否めない。
結局、藤田とその恋人のキキ、キキの恋人のマン・レイ、そして藤田の前妻のフェルナド・バレーと後妻となるユキといった、「エコール・ド・パリの寵児」の周辺の入り組んだ人間模様の渦のなかで板東が暮らしたのは、渡仏した年から2年余りという短い時間であった。その後、郊外のピエルフィットの田園に移り住んだのちも板東は画業を続けたが、1929年に故郷の徳島から父の死が伝えられ、その二年後に後ろ盾となってきた画商のシェロンが世を去ったことは、大きな痛手であったろう。
一方のそのころの藤田はといえば、一世を風靡した「乳白色の肌」の画布に大きな喝采が寄せられ、私生活の混乱を抱えながら「エコール・ド・パリの寵児」は絶頂期にあった。
木綿貿易で巨財をなした近江商人の孫で、大戦後の好景気を背景にその惜しみない散財から当時パリの社交界で〈バロン〉(男爵)と呼ばれた薩摩治郎八による巨額の資金提供によって、パリの大学国際都市に日本館が華々しく開館したのは世界恐慌が見舞う1929年の5月であった。藤田と離別した板東が祖国から伝えられた父の死で失意に沈んでいた年である。首相のポアンカレ以下、政府首脳や作曲家のモーリス・ラヴェルら華やかな招待客を前にして、パリ日本館のホールの正面をパトロンの薩摩が描かせた藤田の大作「欧人日本へ渡来の図」が飾った。
蕩尽して戦後帰国した〈バロン〉は晩年、当時を振り返った自伝のなかで、藤田を売り出したシェロン画廊の飾り窓に板東の作品が並べて展示されていた情景を回想して、その才能を惜しみながら記憶を書き遺している。
〈板東敏雄は美術評論家として権威的なアカデミー・コンクール会員レオ・ラルギュから現代のシャルダンと買われた。ミニチュア(ママ)風画風の静物画家で、若し藤田派なる一種のアカデミーが成立していたとしたら、その第一人者となるべき人物だった。重厚な性格で、細密な静物を藤田風に描き続けていた。彼は現在でもパッシーの画室で克明な画風を続けている〉(『せ・し・ぼん』)
板東が遺した「日記」には、藤田と決別して田舎のピエルフィッテに退いた板東を海老原喜之助が訪ねて来る場面がある。
「ようやく手に入れたハムを切って歓待しようとするのですが、おなかをすかした海老原がなけなしのハムをほとんど一人で食べてしまった、とあります。モンパルナスの仲間たちと別れて田舎に移り住みながら、板東は1938年に開かれた第一回在仏日本人美術家展には参加していて、その記念写真には藤田たちと一緒に映った姿があります。孤独でゆとりのない暮らしのなかで、板東にとって絵を描くことは表現への情熱を持ち続けることであるとともに、自らの暮らしを支えることでもあったでしょう」
ヘレンはそこに、藤田の影で異郷に生き続けた日本人画家のあらわな寂しさを見る。
板東は犬や鳥などの小さな動物を愛した。住みついた田舎町の獣医師のところへ通って繊細な動物画を数多く描いた。その縁で獣医師の娘のマリー・ユーゼニ・ネルシーと結ばれ、第二次大戦が始まってからも帰国することなくフランスの片隅で家族とともに暮らした。
日本が第二次大戦の敵国となって戦火が激しくなると、フランスを去って祖国へ舞い戻った藤田が戦争画を積極的に手がけて、戦争協力の指導的立場に立ったことはよく知られている。戦後その立場を問われて祖国を追われた藤田は再びフランスへ戻って帰化し、カトリックの洗礼を受けた後、望郷と無念の思いに引き裂かれながら1968年に没している。
パリの近郊で家族とともに過ごしながら、板東もひっそりと動物や風景や静物を描いて異郷の戦後を生きた。晩年は病弱ではあったが、ピアノ教師の妻の支えによって同じ画家の道を選んだ娘のキミエの個展の開催に力を注いだ。しかし同じフランスの地に戦後を過ごしながら、藤田と再びまみえることはおそらくなかったであろう。
ヘレンは晩年の板東の未亡人、マリーからこんな話を聞いている。
「板東が亡くなってからまもなく、夢のなかに現れた板東が〈里帰りをしてくる〉といっており、一週間後に再び見た夢では〈帰って来たよ〉と嬉しそうに微笑んでいた、というのです。その夢をみて彼女は安心したといっていました」
藤田嗣治という、戦争を挟んで西欧と向き合った〈日本〉の写し鏡のような巨匠の褒貶の影で、異郷に生きた一人の画家が終生抱えた〈望郷〉の心の痛ましさを考える。
繊細で、孤独で、それでいてどこか素朴な温かさを伝える動物や静物の佇まい。それはついに日本へ戻ることなくフランスに生涯を閉じた板東敏雄が〈祖国〉へ寄せた、遠い祈りのようにもみえる。 (この項終わり)