池内 紀の旅みやげ(30) 放哉句碑─兵庫県神戸市
自由律の俳人尾崎放哉(おざきほうさい)は、ひところ神戸の須磨寺の寺守りをしていた。受付で拝観料をもらい受け、線香やローソクを売る。あいまに境内の掃除。住居と三食が保証されるかわりに、報酬は小遣いにもならない涙金。そのころに詠んだ句の一つが句碑になっている、
こんなよい月を一人で見て寝る
字は師にあたる荻原井泉水。字体、字くばり、石の色合い、大きさ、ぴったり調和して、句碑として申し分ない。
満月か三日月かはわからないが、澄んで空に月が出ている。寺の戸を締めてまわったあと、ひとしきり月をながめ、なにやら幸せな気持ちになって粗末な寝床に向かったらしい。同じ寺守りのころの句に「めしたべにおりるわが足音」というのがあるから、庫裏(くり)か何かの屋根裏をあてがわれていたのかもしれない。ときに放哉、三十八歳。
もともと寺守りをするような人間ではないのである。鳥取の元士族の家に生まれ、旧制一高、東京帝国大学法科卒。明治末年のその当時、この経歴がどれほどのものだったか、今では想像もつかないだろう。超エリートのパスポートを手に生命保険会社に就職、二十代で大阪支店次長、ついで東京本社。幹部候補生の移動があって、三十代の終わりは本来なら、本社常務室といったところにいたはずなのだ。それがどうして、しがない寺守りになって月をながめていたのだろう?
入社十年目に社長がかわり、新社長とソリが合わず退社。さっそく保険銀行界の大立者が口をきいて、朝鮮火災海上の支配人に抜擢。一年あまりで再び退社したのは、酒の上の失敗と借金がかさんだせいである。借金の返済と新事業に奔走したが、やがて悄然と京城(ソウル)からもどってきた。
典型的な秀才挫折のケースである。このあとが風変わりだった。出世コースとはいっさい縁を切って俳句を唯一の生きがいにした。一高のころ一高俳句会に入り、定型俳句を作っていた。一年先輩に荻原井泉水がいた。井泉水はのちに自由律へ転じ、俳誌「層雲」を創刊。そのころ放哉は生命保険のエリート社員であって、折々投句するくらいだった。尾羽打ち枯らして帰国ののち、井泉水との交流が復活。長崎、京都、神戸と食い扶持を求めて移りながら、一日十句を自分に課して句作に精出した。
そんな背景を知ると、同じ句がにわかに陰翳を深める気がする。「こんなよい月」「一人で見て寝る」がべつの意味をおびてくる。出世稼業に明け暮れていたころ、月など見向きもせず、夜、月が空に出ることすら忘れていた。「こんなよい月」にめぐりあうのは、いかなる運命のいたずらだろう。
出世コースの入口で結婚したが、社会的落伍者となったのち、言い含めて妻と別れた。いまや三界に身の置きどころのない流浪者である。孤絶した一人きりの寝床に向かう……。
須磨寺の寺守りは気に入って、ずっといるつもりでいたところ、大寺によくある人事騒ぎでいられなくなり、若狭の寺に移ったが、こちらは名うての貧乏寺で三度の食もあやしい.井泉水の尽力で小豆島八十八ヵ所の寺の一つの奥の院に行きついた。めったに人の来ない院の留守番であって、お遍路を待ってあがる収入はスズメの涙にも足りない。このころ死は覚悟ずみで、以後一年半ばかりの間に有名な「咳をしてもひとり」の名句が生まれた。
句作に殉じた人生といえる。それにちがいないが、放哉俳句の多くは井泉水の手が入っている。残された句稿からわかるのだが、たとえばこんなぐあいだ。
口あけぬ蜆(しじみ)淋しや
口あけぬ蜆死んでいる(添削後)
一つ二つ蛍見てたづぬる家
一つ二つ蛍見てたずね来りし(添削後)
たった一人分の米白々と洗ひあげたる
一人分の米白々と洗ひあげたる(添削後)
井泉水の手をへて、放哉作がひとり立ちしたことが見てとれる。
放哉は四十一歳で死去。井泉水はその倍以上を生きた。死後、放哉がにわかに有名になり、ゆかりの須磨寺に句碑の話がもちあがったとき、当然のように井泉水は揮毫をたのまれた。かつての不器用な友人を思い出しながら筆をとったにちがいない。
句碑はいいのだが、場所がいけない。本堂にあがる石段の左手下に小さな池があるが、その隅っこの狭いところに居ずまい悪く立っている。元寺守りの句碑を持ちこまれ、寺側は不承不承、屋根裏のような隅をあてがったようなのだ。
【今回のアクセス;須磨寺はJR山陽本線須磨駅より徒歩十分】