新・気まぐれ読書日記 (9) 石山文也 漂えど沈まず
ことし上半期の芥川賞(第149回)を受賞した藤野可織の受賞インタビューをニュースで見ていて「そういえば巨匠・開高健はどういう受け答えをしたのだろう」と興味がわいたのでYou-Tubeを検索してみた。ちょうど『開高健名言辞典 漂えど沈まず』を読んでいたから。
『裸の王様』で1957=昭和32年に芥川賞(第38回)を受賞したインタビューの録画がすぐに見つかった。便利なものですねえ。声はTVコマーシャルなどでおなじみのあのバリトンだが黒ぶちのメガネをかけて頬がこけ、神経質そうな印象だ。「私は遅筆なのでたくさん(作品を)書くというより、今後は自重しているよりほかに作品の若さや新鮮さというものを保つしか道はないと思います」と生真面目に答えている。映像はもちろんモノクロで、初々しいというより、ぎこちない感じを受ける。
本の帯の裏表紙側にある桐山隆明撮影のモノクロ写真も腕組みして誰かをにらみつけているような表情で晩年の<ニコニコ丸顔>とは違い、同じように頬がこけているから芥川賞受賞前後か。朝日新聞の臨時海外特派員としてベトナム戦争に従軍したときに同行したカメラマン・秋元啓一と万一の際の<遺影代わり>に撮り合ったポートレートは晩年の体型に近いし、戦争から<生還>した後の作品『夏の闇』(新潮社)に
私は栄養といっしょに
思い出で
体重がふえている。
と書いた。この作品のラストシーンで主人公に
入ってきて、人生と叫び、
出て行って、死と叫んだ。
と語らせている。自身もベルリンから陥落寸前のサイゴンに戻る。フィクションと作家の実行動をないまぜにするのは筋違いかもしれないがベトナムでの苛烈な体験がこの言葉を書かせたのではあるまいか。死はすぐ隣り合わせで、流れ弾どころか狙われたら一瞬にして<仲間入り>させられてしまう。一応はベトナムの最前線で報道するための心得として「非情多感」を胸に刻んではいた。「ベトコンに協力した」と通報されただけで数え切れない若者たちが白昼の路上で<公開処刑>されていった。不条理極まりない死、予告なく行われる「戦場の正義」が極めて日常のできごとだった。
右の眼は
冷たくなければならず、
左の眼は
熱くなければならないのである。
いつも心に
氷の焔をつけておくことである。
『夜と陽炎 耳の物語』(新潮社)
小説家の名言中の名言と知られているのが
明日、世界が滅びるとしても、
今日、あなたは
リンゴの木を植える
<あなたは>の代わりに<君は>と書くことも多かった。オリジナルは宗教改革で知られる16世紀の神学者、マルティン・ルターの言葉で、「もし明日世界が滅びるとしたらどうしますか?」と聞かれたルターは「今日、わたしはリンゴの木を植える」と答えたことによる。何があろうといたずらに慌てず騒がず、今日自分にできることをただ粛々とするだけであるという意味が込められている。生きようとして生きているのではなくたまたま今日も命を永らえた。世界のことなど皆目わからない。大切なのは生身の自分が<生きている>という現実。リンゴの木を植える?どこに?そんなこと・・・・・
焼け跡から走り続けた戦後派日本人として食にも貪欲だった。『最後の晩餐』(文藝春秋)には「名酒の名酒ぶりを知りたければ日頃は安酒を飲んでいなければならないし、御馳走という例外品の例外ぶりを味得したければ日頃は非御馳走にひたっておかなければ、たまさかの有難味がわからなくなる」という持論を展開し
美食とは
異物との衝突から発生する
愕(おどろ)きを愉しむことである。
と断じる。
私が色んなものを色んなところで食って、どうも近頃あんまりうまくない。知らんでもええことを知ったために世の中つまらなくなる。これを「知恵の悲しみ」という。悲しみが舌の先に出てきて困る。
とも。
1968=昭和43年から始めた釣りは翌年からアラスカを振り出しに、アマゾン、中国、モンゴルと世界をほぼ半周する<発熱>ぶりで現在ではわが国でも釣った魚をそのまま川に戻す「キャッチ・アンド・リリース」を広めたのは開高だといわれる。モンゴルでの釣行での名言は
モンゴルのものはモンゴルに。
ジンギス汗のものはジンギス汗に。
私は挑戦し、征服するが、
殺さない。支配しない。
『河は眠らない』(文藝春秋)では「魚釣りも一瞬である。そのときの手が遅れるとだめだ。同時に一方、ゆったりとした気持ちでもなければならない」として
悠々として急げ
が生まれた。大阪生まれだから「そんなに急かんでもええのんとちゃう。けども、や!」てな感じだろうか。
最後に表題はパリが「ルテチア」と呼ばれていた頃から掲げ続けられている市のモットーで、パリ市の紋章にはセーヌ川に浮かぶ帆掛け舟のデザインとともにこの文言が書かれているそうだ。原文はラテン語の
FLCTUAT
NEC MERGITUR
NEC MERGITUR
「パリが誕生してから五百年か六百年、あの街の歴史を見てごらんなさい。風にうたれ波にもまれ、しかしその歴史はこの<漂えど沈まず>の一言に、見事に要約されているじゃないか。男の本質、旅の本質はまさにこれなのだ」(『地球はグラスのふちを回る』(新潮社)からである。
巨匠が愛した名句・警句・冗句200選、You-Tubeを見たせいもあるが当分は<耳>に残りそうだ。
ではまた