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池内 紀の旅みやげ(32)◯Ⅹの町──茨城県結城市

角を曲がって参道に入ったとたん、ギョッとした。正面に×のかたちで木が打ちつけてある。一瞬、「磔刑(たっけい)」という言葉が頭をかすめた。寺の大門がハリツケにされた。

茨城県結城市(ゆうきし)の名刹称名寺(しょうみょうじ)。初代藩主結城朝光の墓所のあるところ。べつに墓が目当てで訪れたわけではなく、町歩きの途中になにげなく立ち寄ったばかりだが、大門に角材が打ちつけてあるのは珍しい。くぐり戸から中に入ると、内側にも×があって、正面・左右と念入りである。ゴルゴダの丘のキリストは、二人の盗賊といっしょに処刑され、三つの磔刑像で描かれるが、なにやらそれと似ている。

結城市にある称名寺のハリツケにされた門前の姿である。

結城市にある称名寺のハリツケにされた門前の姿である。

雄大な屋根と小屋根をもつ大門ながら、頭が立派すぎて支えきれなくなり、危険につき使用停止のための処置だろうか。それならそれでほかにやり方もあるだろうに、ハリツケ型で釘づけとは少々乱暴ではあるまいか。

結城紬(ゆうきつむぎ)で知られた町である。通りごとにコットンコットンはた織りの音が聴こえそうに思うのはよそ者の早合点で、もともと下総(しもふさ)一帯の農家の家内産業として発展した。町にあるのは問屋ばかりで、養蚕のはじまりから絲づくり、染め、織り、買い上げいっさいを管理してきた。ひところは最上の紬の里として大いに栄え、問屋街には、いまも重厚な蔵をそなえた建物が軒をつらねている。

はじめて知ったのだが、おそろしく手間のかかる織物なのだ。「煮繭」といって、繭を重曹で煮て、真綿状にすることから始まり、糸つむぎ、管(くだ)巻、糸あげ、染色、下糊(のり)づけ、図案作成、機延べ(はたのべ)、墨づけ、絣(かすり)くくり。これでまだ全行程の半分にもいかない。そのあともすべて手づくりで、どれにも経験と修練が要る。平成二十二年(2010)、その技術がユネスコ無形文化遺産に登録された。審査にかかわった外国人は、美しいキモノになるまでの気の遠くなるようなプロセスに唖然としたのではなかろうか。

大町、陣屋町、白銀町、紺屋町、鍛冶町……旧来の地名がそのままつかわれている。結城藩一万七千石。高級地場産業を持ち、財政に恵まれていたのではあるまいか。幕末・維新のころ、へんてこな事件があった。江戸にいた藩主水野家第十代の殿様は佐幕思想の持ち主で徳川方。国もとでは家老以下、勤王方で、新政府軍に恭順を伝えていた。これを知った殿が激怒し、みずから「水心隊」という彰義隊の別動部隊を率いて国元へもどり、城を砲撃して占拠した。藩主が自分の城を攻撃したわけである。新政府軍の進撃にあって、殿は城を脱出、彰義隊のもとへ奔った。この「不始末」に対して結城藩では二人の家老が切腹した。ハリツケ大門のとなり合わせの寺に、切腹した家老の一人の「自刃の跡」の碑があったが、歴史はおりにつけ奇妙ないたずらをするものである。

称名寺の門の裏にまわってみるとなおさらにしっかりとハリツケにされていた。よほどアタマが重いのだろうか。

称名寺の門の裏にまわってみるとなおさらにしっかりとハリツケにされていた。よほどアタマが重いのだろうか。

町のあちこちに紬の製作を見学できる施設がある。問屋の出店がカフェに改築され、香ばしいコーヒーと、おいしいケーキがいただける。あざやかに旧型をのこしたシャレた店づくりで、それに店の女性の品のよさ。話のぐあいから当家の生まれ育ちと知れたが、旧問屋の底力がチラリのぞいたぐあいだった。

地酒の蔵元をおそわったので寄ってみた。赤レンガの煙突と、黒瓦の大屋根のコントラストがみごとである。よくみると瓦の半分ばかりが灰色がかっている。東日本大震災の被害のあと葺き直した。ふつうならチャンスの到来とばかり旧の建物を引き倒して現代風の効率的な蔵にしそうなものだが、元どおり木造の瓦屋根に修復した。「観光物産センター」のおばさんによると、日本酒の業界は右肩下がりでラクじゃないのに、地震の大痛手を受け、ときおり蔵元が立ち寄ってボヤいていくそうだ。老舗の跡つぎに生まれたばかりに運命が大きく変わった──。

大旦那でいられる人が、売り場のおばさんにボヤくところがほほえましい。

城下町特有の少しうねった大通りが何やらスッキリしているのは、余計な看板がないせいで、それぞれの店の一つにかぎっている。見通しがきく上に、伝統的な日本家屋の威厳と味わいがよくわかる。

やればできる見本であって、ひそかに○じるしをつけた。大門の×マークと○×が並び立ったぐあいである。

【今回のアクセス:JR東北本線小山駅で水戸線に乗り換えると二つ目が結城駅】

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