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ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 5 柴崎信三

  〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

5 〈武士(もののふ)〉について

    「平重盛像」とアンドレ・マルローの〈永遠〉

 

伝藤原隆信(国宝)「伝平重盛像」(12世紀末、京都・神護寺蔵)

伝藤原隆信(国宝)「伝平重盛像」(12世紀末、京都・神護寺蔵)

 

「源頼朝」「藤原光能」とともに〈神護寺三像〉の一つと呼ばれる『伝平重盛像』は、平家の盛衰と運命をともにした平清盛の長男で、『平家物語』では温厚にして沈着な武将として描かれる重盛がモデルとされる。作者は宮廷歌人で、当時肖像画の名手だった藤原隆信と伝えられてきた。

奔放で多才な藤原隆信の周辺には源平のいくさのさなか、衰亡に向かう王朝末期の宮廷の周辺に生きた男女がとり結ぶ、転換期の哀切な離合の物語がある。建礼門院右京大夫という才色兼備の閨秀歌人も、この絵の背景に生きた悲劇のヒロインの一人であろう。

高倉天皇の中宮平徳子(建礼門院)に出仕する女房だった右京大夫はその優れた容色に加えて、知的で艶やかな歌を詠み、琴や笛など音曲の芸にも非凡な才能を示した。皇族や平家の公達がまじわる歌の贈答や管弦の遊びなど、王朝のサロンの花形であった。

父は書家の世尊寺伊行、母も代々宮中で雅楽をつかさどる名門であり、学芸の才覚には持って生まれたものがあったろう。晩年に生涯の詠歌をまとめて回想した『建礼門院右京大夫集』には、若い日に平家の公達とまじわった美しい思い出が、四季折々の情趣に彩られて鮮やかに描かれている。

なかでも平重盛の二男で壇ノ浦の戦に命を断った資盛との悲恋は、この回想記の白眉をなす大きなモチーフを形作っている。25歳でいくさに殉死した年下の恋人の面影を偲んで、右京大夫は「はるか西の方」をながめながら若い日を回想する。

 

〈契りとかやはのがれがたくて、思ひのほか物思はしきことそひて、さま〲思ひみだれしころ、さとにて、はるかに西の方をながめやる、梢は、夕日の色しづみて、あはれなるに、またかきくらししぐるヽをみるにも〉

 

資盛は公卿に列したのちに平家の都落ちに身を投じ、元暦2(1185)年3月24日の壇ノ浦の戦に敗れて入水した。『平家物語』は「小松新三位中将資盛、同小将有盛、従父兄弟左馬頭行盛、三人手ヲ取組、海ニゾ沈ミ給ケル」と記している。歴史の激動に引き裂かれた資盛との遠い恋の記憶を、右京大夫は晩年にいたるまで深く心に温め続けた。

 

右京大夫のもう一人の恋人が『平重盛像』の作者とされてきた藤原隆信である。

こちらはひと周り以上も年上の、手連にたけた中年貴族である。「似絵(にせえ)」と呼ばれる肖像画を確立した絵師であり、『明月記』で知られる藤原定家とは腹違いの兄弟で、『藤原隆信朝臣集』をはじめとする和歌や物語作家としても足跡を残している。

若い公達との悲恋の傍らで、右京大夫は没落しつつある王朝の「色好み」の伝統を体現したような、この多芸多才の「恋多き男」にも恋したのである。

 

〈あはれのみ深くかくべき我をおきてたれに心をかはすなるらむ〉(隆信)

〈人わかずあはれをかはすあだ人になさけしりても見えじとぞ思ふ〉(右京大夫)

 

「私をさておいてあなたは誰に心を通わすのですか」と問う中年男に対し、若い女は「恋の気分はわかっていても、あなたのような浮気性の男にそのように思われたくはありません」と機知をきかせてはぐらかす。

それでも「よ人よりも色好むと聞く人」と評判の隆信に、女心は揺れ動くのである。

それから80歳近くまでの長寿を全うする右京大夫は、平家が滅んでのちの晩年に後鳥羽帝のもとに再び出仕した。すでに70歳を超えていたが、勅撰集に自分の歌を求められた折、選者の定家から名前をどうするかと問われて、こう歌に詠んで答えた。

 

〈言の葉のもし世に散らば偲ばしき昔の名こそ留めまほしけれ〉

 

時代は移った。「けれども懐かしい平家の時代の建礼門院の名をとどめてほしい」と。

 

作品に映しだされるのは、男女の情愛のやりとりを通して映しだされる華やいだ王朝末期の美学である。そうした時代背景の下で、右京大夫は勃興する武士という「公」の倫理に若い命を捧げた公達との悲恋の傍ら、没落しつつある王朝の「色好み」の伝統を体現するような、貴族文化に生きた多芸多才の「恋多き男」に恋したのである。

藤原隆信の「平重盛像」は、そのような時代を背景にした一人の〈サムライ〉の肖像である。同じ隆信の「源頼朝像」や「藤原光能像」とともに「神護寺三像」と呼ばれるこの人物画は、俗人を描いた「日本最古の肖像画」として、フランスの作家、アンドレ・マルローによって「発掘」されて世界に知られるようになった。

源平争乱の激動の時代、父の清盛のもとで戦功を重ねた平家一門の後継者の肖像から、乱世を生きた一人の武将の沈着にして果断な〈武士の精神〉のかたちが浮かび上がる。マルローはこの人物画に何を見ようとしたのだろうか。

オズワルド・シュペングラーのいう20世紀の「西欧の没落」を生きてきたフランスの知性は、中世の日本の一人の武人の画像なかに見出した、〈死〉を厭わない自己犠牲の行動哲学に導かれて、極東の小さな島国に息衝く「もうひとつの文明」に瞠目するのである。

 

1958(昭和33)年の末、戦後のフランス第五共和制初の大統領に就いたばかりシャルル・ド・ゴールが文化担当大臣に起用するアンドレ・マルローを、政権発足からほとんど時をおかずに特使として日本に派遣したのは、どんな意図が込められていたのであろうか。

最初の閣議でド・ゴールは〈私の右手にいつもアンドレ・マルローに座ってもらう〉と宣言した。そして厚い信頼を寄せるこの遥か年下の鬼才に対し、すぐさまイラン、インド、日本を歴訪してそれぞれの元首との会見を実現することを指示した。この旅はレジスタンスの勇士として祖国に貢献したマルローへの〈休暇〉であったのか、あるいは戦後世界に沸き起こるアジアへの関心が、老いた将軍の心を動かした結果であったのか。

対ファシズム抵抗運動の闘士であり、東洋文明への深い洞察に基づいた小説『王道』や『人間の条件』などで知られる行動派の作家、マルローにとっては、戦前の1931年に続く二度目の訪日であった。東洋(オリエント)に魅せられた作家は、この訪日で初めて現代文明に比類のない日本文化の《静謐(セレニテ)》と《永遠(エテルニテ)》の表象として、若い日から深い鑚仰を寄せ続けていた隆信の「平重盛像」の実物に対面して、あらためて深い衝撃を受けるのである。

父親に連れられてギメ美術館の展示に親しんだことなどから、マルローは若い日から東洋、とりわけ日本の美術には深い関心を育んでいたが、フランスを中心に19世紀末から20世紀初頭にかけて欧州を席巻したジャポニスムに親しんだ形跡はない。

初めて藤原隆信の「平重盛像」に接したのは1904年、日本から輸入された美術雑誌の『国華』に掲載された図版を通したものだった。戦後の1951年、ガリマール社から刊行した『沈黙の声』のなかでマルローは「平家の一人物像」のタイトルで、はじめて図版入りでこの作品をとりあげている。そのころ、終生親密な友情で結ばれる日本の作家、小松清にあてた手紙で、マルローは「神護寺三像」のなかでもとりわけ「平重盛像」から受け止めた大きな霊感を隠さずに伝えた。

 

〈ぼくは『国華』のコレクションには非常に感動した。日本の偉大な芸術を知らないわけではなかった。しかし、これらの作品はほとんど知らなかった。ここでは作品がひとつの塊りになっているよ。ここにある頼朝の肖像(藤原隆信作)は(神護寺のもの[隆信作の『平重盛像』]ではないけれども)、驚くべき傑作だ。それに、これらは鎌倉時代のすべてと、土佐(室町)時代初期のものだ!ここには、ほんとうの日本、日本の音楽につながるものがある〉(林俊、クロード・ピショワ訳)

 

マルローがはじめて実物の『平重盛像』に対面したのは1958年12月。ド・ゴールの特使として、アジア歴訪のなかでの二回目の日本訪問は多忙をきわめた。

文化特使という立場で日本へ到着した直後の記者会見で、マルローは日仏文化交流の促進へ向けて、パリで日本文化展を開く計画を明らかにする。奈良、平安、鎌倉時代のものを中心にした日本の絵画、彫刻を通して日本の伝統的な精神文化を4,5カ月にわたって紹介するという内容がそこで示された。

この旅で最初に訪れたのは奈良と京都である。

法隆寺の大法蔵院で聖徳太子の絵姿に対面し、救世観音と百済観音に大きな感動を呼び起された。中宮寺の半跏思惟像、薬師寺の薬師如来像、唐招提寺の鑑真和上像、奈良博物館の「涅槃図」や「信貴山縁起図」などを鑑賞した後、マルローは京都国立美術館でかねてから思いを募らせてきた隆信の肖像画にようやく対面した。

隆信の「源頼朝像」と「平重盛像」を並べてみたい、という希望によって、源氏と平家の両雄を描いた二つの国宝の肖像画が並置された展示室で、20分ほどにわたってこの作品をじっくりと比較した。そして、マルローはそれまでの日本の国内の評価を覆すように「古拙で高貴な重盛像のほうを隆信の代表作として選ぶ」と断定する。

このことによって、王朝の〈雅〉から武士の〈無常〉へ移ろう時代精神をかたちにした肖像として、「平重盛像」は「サムライの表象」として世界に紹介される機会を得た。

この訪日はフランス大使館でのカクテルパーティーや午餐、藤山外相、灘尾文相や田中最高裁長官の訪問、首相官邸の岸首相への表敬、入院中の作家、川端康成への見舞いなど、予定で埋め尽くされたあわただしい日程であったが、その合間を縫って昭和天皇との会見という、特筆すべき場面が設けられた。まだ文化相への任命を受けていない大統領特使という立場での謁見ということから、これは天皇の公式の会見としても記録されていない。しかし、それは一人のフランスの作家と昭和天皇のあいだで交わされた、日本文化をめぐるまことに興味深い対話として、今日に伝えられている。

 

「モーニングコートにシルクハットといった装いの、両国の、通弁役大使たち」を前にして、「どこか憂愁のチャップリン(!)といった面影の万乗の君」と、フランス第五共和国国務担当大臣との対話を、マルローは自ら『反回想録』のなかで次のように記した。

 

「奈良へ行ってこられたそうですね?」

「さようでございます、陛下」

「それはいいことをなさいました。なぜ、いにしえの日本に興味をお持ちですか?」

「武士道なるものを興した民族が、騎士道を興した民族にとって、どうして無意味のはずがございましょうか?」

しばし、間。天皇は、またも絨毯に視線を落としておられたが、

「ああ、そう…… あなたがこの国に来られてまだ間がないということもあるでしょうけれど。しかしあなたは、日本に来られてから、武士道のことを考えさせるようなものをひとつでも見たことがありますか? たったひとつでも?」

質問は、この縉紳の広間のなかに、あたかも古池に投じられた小石の広げるような波紋を、絶望的なかたちで押しひろげていった。石庭の、条痕を刻んだ白砂のおもてに伸びる物陰に似て、ゆっくり繰りひろがるところところの波紋を。

 

〈サムライ〉の哲学の現代日本におけるその不在を逆に問いかける天皇に、マルローは大きな衝撃を受け止めた。のちに隠棲したパリ郊外の館を訪ねたフランス文学者の竹本忠雄に対し、マルローはその時の天皇との対話を回想して「天皇のお口から言われてことを考えると、じつにすごい言葉ではありませんか!」と述べたうえで、この「不在の証言」こそが、逆説的な日本文化の「渝(かわ)らない本質」の証明である、と熱を込めて伝えた。

そこでは「不在の提示」というかたちで〈永遠の日本〉が示された、というのである。

昭和天皇とマルローとの間には、余り知られていない多くの往来があった。明示的には1958年12月のド・ゴール特使として来日した折の会見を嚆矢として、1960年2月には文化相として、1974年の訪日では川端康成の遺志を携えて皇太子夫妻への進講の折に、そして1971年には訪欧した昭和天皇がパリでマルローとの会見を望んで、フォンテンブロー城のサロンで極秘に会見が行われている。

二年後に再び日本を訪れた折、マルローは東京・駿河台に竣工した日仏会館の開館式で講演する。西洋文明にとって20世紀は「文明の複数性を発見した」ことこそに大きな意味があるという指摘を前置きして、日本文化を次のように見立てて讃えた。

 

〈日本は中国の一部ではない。なぜなら日本は、愛の感情、勇気の感情、死の感情において中国とは切り離されているから。騎士道の民であるわれわれフランス人は、この武士道の民のなかに、多くの似かよった点を認めるようつとむべきであろう。かつ、真の日本とは、世界最高の列のなかにあるこの国の十三世紀の偉大な画家たちであり、(藤原)隆信であり、この国の音楽であって、断じてその版画(浮世絵)に属する世界ではない〉

 

優美さや繊細さといった表現と感受性の水脈をつなぐ相互の文化の伝統に結ばれて、日本とフランスのあいだでは近代への入り口から今日まで、さまざまな人々が美をめぐる交響を広げてきた。

葛飾北斎らの浮世絵に東洋の美のユートピアを夢見たヴィンセント・ファン・ゴッホは言うに及ばず、そのポスト印象派から西洋絵画への憧れの「輸入」に腐心した日本の洋画の屈折した短い歴史がある。あるいは戦前の駐日大使として滞在した日本で伝統美術や文芸に深く親炙し、広く世界に紹介したことで知られるに詩人で劇作家のポール・クローデル、はたまたフランスの近代絵画に対する日本人の憧憬が世界的な収集となった「松方コレクション」の事跡なども、思いつくままに例示することができる。

こうした東西の二つの国を結ぶ往来の歴史の先で、マルローが見出した〈日本〉は装飾性や感受性といった人間の表層を超えて、伝統を持続させる文明の深層に及んでいる。

 

藤原隆信の「平重盛像」に対する、マルローの渇仰にも似た讃歌はやがて、その最晩年にいたってある具体的なかたちとなって立ち上がる。

南仏のニース近郊、サン=ポール=ド=ヴァンスにあるマーグ財団美術館で「アンドレ・マルローと空想美術館」と名付けた展覧会が開かれたのは、1973年7月である。

マルローがこの展示に選んだのは、自らの美の遍歴のなかで選び抜いた古今東西の絵画や彫刻など、180点の名品である。いわばこれは西欧と非西欧という枠組みを超えて、あらゆる「文明」と地域と時代の流れのなかに見据えたマルローの美術史であり、その窮極にある〈20世紀〉への問いにほかならない。

ティツィアーノ、ベラスケス、ゴヤ、セザンヌからピカソやマチスといった西欧絵画の巨匠たちとともに、古代インド、中国、シュメールなどの彫刻が展示室に並び、さらにはアフリカの仮面や北米の先住民族のホピ族の人形など、あらゆる時空を超えた作品が会場の展示を埋め尽くした。

そのなかで最後の展示室にただ一点、日本からようやく招いた藤原隆信の『伝平重盛像』が厳かに、しかし凛々しい佇まいで展示された。このピリオドは暗示的である。

マルローは最後に置いた重盛像の展示をこう解説する。

 

〈重盛は、1200年ごろの大臣であった。角ばったキモノを着て脚を組んだ等身大の肖像画。キモノの間から、淡青、石榴色、サーモンピンクなどの、極小の、しかし不可欠な装身具が見えている――それは、三角形と同じく絶対的かつ永遠の幾何学であり、宇宙に与えられた「ゲルニカ」がそうであるように、威厳に満ちている。英雄という言葉の表意文字。平板な顔――そこでは顔立ちも目も髭も、ほとんど消えかかった線からなっている――が、それ自体ひとつの象形文字を形作っており、直衣のゆったりした台形が全体を秩序立てている〉(『黒耀石の頭』岩崎力訳)

 

マルローの賛辞はなお、とどまることがない。

 

〈隆信は重盛を「至高の本質」に結びつける。イタリア14世紀のフランチェスコ派の絵画が、たまゆらに消える生者たちにイエスの世界を対置するように、極東の伝統的絵画は、千年以上の長きにわたって、人物、動物、風景、花など、人間によって創られたのではないものすべてを、戦いも罪もない世界に結びつける〉

 

画家がモデルの内部に探り当てたもの、つまり精神のかたちを造形したものとして、マルローは隆信の重盛像に特等席を与えることで、世界にこれを示した。それは日本人にとって眠っていた伝統の覚醒であり、西洋絵画へ投げかけられた疑問符でもあった。

 

ド・ゴールの退陣とともにすでに政権から下ったマルローは、南仏での「空想美術館」の展覧会を終えた翌年の1974年5月、人生最後となる4度目の日本訪問の途に就いた。

隆信の「重盛像」をフランスへ招いた見返りとして、ルーブル美術館の至宝であるレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を東京で展覧するのに合わせた訪日であった。

10年前の東京オリンピックあわせて『ミロのヴィーナス』を日本に初めて送り出し、述べ71日間に百七十二万人を超える入場者を迎えた折、門外不出の名品の海外展示に対する批判がフランス国内で高まり、国会で責任追及が行われたことがある。

答弁に立った文化相のマルローは「東京オリンピックの最終日にわれわれは金メダル一個を得たにすぎないが、ヴィーナス像のうしろに掲げられた三色旗を振り仰いだ日本人は400万人にも上る。これはまさにダイヤモンド・メダルではないか」とかわした。

『モナ・リザ』展にも150万人を超える入場者があり、マルローが企図した日仏文化交流は大きな成功のうちに終わった。

この最後の日本への旅で、マルローは京都で再び隆信の「重盛像」と「頼朝像」に対面した後、奈良からはじめて熊野と伊勢神宮を訪れた。根津美術館で見た『那智滝図』から大きな啓示をうけたのがきっかけである。

 

〈画軸が広げられたとき、私は思った―これは《アマテラス》だ、と。日本の女神にして、水と、杉の列柱と、日輪との神霊〉(竹本忠雄『アンドレ・マルロー 日本への証言』)

 

130㍍の瀑布の前に佇んだマルローの感激は大きかった。

伊勢神宮の内宮を参拝して経験した死と再生への祈りとともに、マルローの日本体験はこの旅によってより根源的な思想経験となって最晩年へ導かれたと窺える。

 

マルローの〈日本〉に対する強い恋着の軌跡をたどってみると、その最も深いところでこの国の〈サムライ〉の文化が育んできた〈死〉の哲学への抜きがたい傾斜がある。

それは若い日に仏印やカンボジア、中国などアジアを探査し、スペイン戦争や対独レジスタンスに身を投じながら、戦後はド・ゴール政権の一翼を担って祖国に献身したこの行動主義の作家の人生とも深くかかわっている。

 

マルローの人生に〈死〉はいつも親しい伴侶としてあった。

8歳の時、海運業者だった祖父が自死する。29歳の時、今度は父のフェルナンがガス自殺で死ぬ。アパルトマンの傍らにはインドの輪廻思想についての本が置かれていたという。

レジスタンスに身を投じた義弟はゲシュタポにとらわれて処刑された。

若い日の恋人で、ジャーナリストのジョゼット・クロティスの事故死。二人の間に生まれた二人の息子も青春のさなかに自動車事故で亡くなった。そして失意の中で再会して晩年をエソンヌの広壮なシャトーにともに暮らした詩人のルイーズ・ド・ヴィルモランも、突然病に倒れて逝った。

まことにマルローの人生には累々たる死があった。

戦前の最初の訪日の折、マルローは出迎えた日本の報道陣を前にして、こう述べている。

 

〈近代的な日本人にとって過去の遺物となってしまったものが、私たち近代のヨーロッパ人にとっては、大きな謎となったり、あるいは深い暗示となって現れたりすると、私ははっきりと率直に言っておきたい。ハラキリにおいて<死>は消滅する。死という人間的諸条件を、ある人間の意志が自由に否定する行為であるからだ。ハラキリにおいては、より高き倫理的価値が、自己に対する超越のかたち、死に対する克服のかたちによって、肯定されているからだ〉

 

『反回想録』のなかでマルローは登場する「坊さん」の言葉として「ハラキリは自殺ではない。例証です」と述べて、西洋における自殺とは本質を異にする積極的な意味を与えている。「愛する人を死に導くことを潔しとするのは、おそらく究極の愛の形であり、それに勝るものはないだろう」と『人間の条件』のなかで登場人物に語らせているのは、まさにそのような「隷属」から逃れて理想化された「死」を日本のサムライの文化のなかに見出すことができるからであった。

戦後をともに歩んできた巨星、ド・ゴールが80年の生涯を閉じた1970年の晩秋、時を置かずしてマルローは日本の作家、三島由紀夫が「楯の会」の若者を率いて東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部総監に乱入し、クーデターを企てたのち割腹自殺するという、驚くべき報道を聞いて激しい衝撃を受けた。まさにマルローが思い描いてきた〈サムライの死〉が、高度経済成長のただなかの20世紀の日本に再現されたかのようなできごとであったからである。

マルローと三島はついに直接見(まみ)えることはなかったが、互いにその思想と行動に対して並々ならぬ関心を寄せていた。

 

〈行為者であり表現者であること、表現される者であり裁く者であること、死刑囚であり、死刑執行人であること、かつてボオドレエルが企て、二十世紀にいたって、マルローの<行為>の小説がそのひとつの典型を打ち建てた、真に今日的な文学の困難な問題がここにある〉(『ジャン・ジュネ』)

 

三島の死に続く川端康成の自裁のあと、マルローは竹本忠雄の問いに答えていった。

 

〈三島については、行為としての死はじつに強烈な現実性を持っているといわざるをえません。そこには偉大な日本的伝統が息づき、儀式がものをいっている。(左から右へと真一文字に腹を切るしぐさをして)なんといっても、これは凄まじい行為ですよ!西洋では、このようなローマ的自決にたいして、結局はこれをロマンチックな自殺と混同してしまうのが落ちですが、しかし、われわれのロマン主義者たちはけっして同じような自殺をとげたわけではありませんからね。彼らにおいては、行為の意味はぜんぜん別だったのです〉

 

『反回想録』に「日本の挑戦」の一章を書き加えたのは、事件の二年後である。マルローは1976年の晩秋、パリ近郊の病院で娘たちに看取られて75歳の平穏な死を迎えた。

 

さて、以下はこの犀利で謎に満ちたなこのフランス人作家の死後に明らかになった、藤原隆信の『平重盛像』とマルローをめぐる物語の、まことにアイロニカルな終章である。

1995年になって、美術史家の米倉迪夫が「神護寺三像」に描かれたモデルの冠や着衣の様式、眉や目鼻などの描法を考証した結果として、平重盛像のモデルを足利尊氏、源頼朝像を尊氏の弟の直義、藤原光能像は室町二代将軍の義詮とし、制作年代も一世紀半ほど下げるという新説を公にした。

制作年代と像主を変更するという、大胆な学説は美術史のみならず、先入観に支配されてきた日本の中世史の見直しにもつながるものとして、大きな反響を呼んだ。

「武士らしく、尊厳に満ちて凛々しい表情」が英雄の理想化という象徴作用をもたらして、後世の人々が歴史の文脈を読み違えてきたとすれば、これはまことに大きな問題提起である。もっとも、これには反論も強くあって決定的な同定にはなっていない。

実在したモデルのイメージを前提にして、時代風俗という状況証拠から像主の姿かたちの異同を問うのなら、これにも歴史の歪みを引き寄せる落とし穴がる。

ただあの神話的な肖像画の像主が重盛ではなく尊氏であり、作者も隆信ではなく遥か下った南北朝期の絵師ということになれば、絵画としての価値は揺らぐことがないとしても、マルローが得た霊感のありようは大きく揺らぐことにもなろう。

歴史とは、そしてそれを眼差す人間とは、まことに無慈悲なアイロニーに満ちている。

                                =この項終わり

(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

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