連載 ジャパネスク●JAPANESQUE かたちで読む<日本>8 柴崎信三
〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。
8 〈南蛮〉について
池長孟の「蒐集」と天正少年遣欧使節
その異形の洋館は、九十年近い歳月を経たいまもそこにある。
新幹線の新神戸駅から東へしばらく向かった野崎通り五丁目。港から続く坂道を上った一角は異人館が点在する北野町ともほど近く、閑静な住宅地が広がっている。
急な坂道の中腹に六甲の山並みを背景にして、神戸の港を見下ろすように建てられた「紅塵荘」は、スパニッシュ・ミッションと呼ばれる中世スペインの様式の西洋館である。
一九二七(昭和二)年、兵庫有数の資産家で美術品の収集家として知られる池長孟によって建てられた。安土桃山時代から江戸期にかけて、西欧からやってきたキリスト教の宣教師や長崎の出島のオランダ人らから伝えられた西洋風の絵画や工芸品は「南蛮もの」「紅毛もの」と呼ばれ、大名諸侯をはじめ多くの日本人の関心を集めた。近代に入ってからは北原白秋や芥川龍之介、新村出といった文学者の間でそのエキゾチシズムが「南蛮熱」を広げた。池長もそうした時代背景の下で「南蛮美術」の収集に生涯を蕩尽した。
海へ向かってのぞむ、神戸製鋼所の煙突が吐き出す紅色の煙から「紅塵荘」と名付けられた館は戦災や阪神大震災にも耐えて、いまは病院の施設として使われている。往時の面影は偲ぶべくもないが、池長があたためた美への憧れと夢の結晶は形を留めている。
地上三階、地下一階の鉄筋コンクリート造りの館はまさしく、中世スペインの僧院を思わせる。黄褐色のスペイン瓦に花崗岩と装飾タイルを使った外壁が施され、アプローチには羊の彫像とテラコッタ、中庭には噴水が設えられている。
小山安一郎が設計した建物の白い外壁は、褐色の装飾タイルが下部を蔽い、すべての窓にほどこされた重厚なスチールサッシと鋼鉄の面格子の装飾が格調を伝えている。
延べ床面積で七百平方㍍に及ぶ内部は、東南にめぐらしたベランダと書斎、二つの洋室にダイニングとキッチン、吹き抜けのホールに離れ風の二室の日本間などからなる一階、オーケストラボックスまで備えて舞踏会の場にあてられた二、三階のホールはそれぞれ、アールヌーボーや英国風、インド、中国風の凝った内装が、いやがうえでもエキゾチックな雰囲気を立ち上げる。特注のステンドグラスや装飾金具、室内の階段の手すりの彫刻や壁面のタピスリーにいたるまで、すべてに施主の南蛮趣味が貫かれている。
池長は昭和二年の暮れ、道楽を尽くしたこの館を完成させて家族と移り住んだ。
生家は神戸の開港当時から瓦屋で財をなしている。神戸市議会の議長などを長く務めた有力者で、教育事業にも熱心だった父の通は、土地など多くの家産を抱えていた。そんな環境の下で、孟は京都帝大法学部に在籍中から文化事業に強い関心を寄せた。先駆けとなったのは孤高の植物学者、牧野富太郎が集めた十万点以上に上る厖大な植物標本が困窮で散逸の危機に瀕していたのを知り、支援を申し出てこれを買い取ったことである。これらは新たに設けた植物学研究所に保存されて国外への流出を免れた。
一九一六(大正五)年の師走、「大阪朝日」に牧野が窮状を訴える記事が掲載されると、孟は大阪朝日の社会部長、長谷川如是閑に面会を求めた。
「この標本が海外に流出するのは何としても食い止めたい。すべてを三万円(今日の貨幣価値で云えば六、七千万円に相当するだろう)で買い取り、それを改めて牧野氏に寄贈したい」
牧野にはもともと金銭にけじめのない、放蕩的な体質があった。孟が援助した金は再三遊郭通いに蕩尽されたが、それでも孟は父から引き継いだ建物を植物学研究所としてそこに標本を保存し、なおこの奇矯な植物学者を生涯にわたって助け続けた。
その後、浮世絵などを愛好するディレッタントとなったこの「瓦屋のぼん」は見合いで所帯を持ち、父親の事業を引き継ぐ傍ら育英商業という学校の校長を務めていた一九二二(大正一一)年、思い立って友人たちと8カ月に及ぶ欧米への旅行に旅立つ。米、英、仏、伊、墺、独、白の七カ国を巡る、文字通りの漫遊の旅である。これが「南蛮美術」に目覚めるきっかけであった。ニューヨークでみた実業家、ヘンリー・フリックの欧州絵画の蒐集や、ローマで見た枢機卿、シピオーネ・ボルゲーゼのバロック美術の蒐集を目の当たりにした経験は、わが身を引き込んでゆく「蒐集」という魔と「西洋」という異郷が日本人の自分に働きかけて来るものが何であるかを考える、大きな経験であったろう。
われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議國を、
色赤きびいどろを、匂鋭きあんじやべいいる、
南蠻の棧留縞を、はた、阿刺吉、珍酡の酒を。
(北原白秋「邪宗門祕曲」)
東夷、西戎、北狄、南蛮という。列島をとりまくさまざまな異文化の奔流のなかで、「南蛮」はキリスト教の布教のため渡来した宣教師を通して西欧との接触が始まった中世から近世にかけて、日本人にとって秘めやかな憧れと甘美な夢想の対象であった。安土桃山期にポルトガルやスペインから来た宣教師たちはキリスト教の信仰とともに珍しい外国語や風俗を通して異文化の香りを運んだ。秀吉によるバテレン追放と禁教から鎖国体制に入った後も、長崎・出島という小さな窓を通して入ってくる異教の人と文物の好奇な輝きは、失われることがなかった。近代に入って与謝野鉄幹や北原白秋、芥川龍之介、木下杢太郎らの文人たちを蠱惑したのも、遙か海の彼方からこの列島に響き続けた、禁忌と殉教という悲劇を伴うこうした異国情緒の妖美な旋律にほかなるまい。
〈抑々の始まりは昭和二年八月十一日である。ふとした機会で大阪の内本町のべにや美術品店の前を通ったら、陳列窓に蘭船や唐船の肉筆画や、いろいろ風変わりな品が列べられてゐた。そこで店内に飛び込んで始めて『バッテラ渡海図』と『魯西亜船』の木版を見せられたのである。その時はこれが長崎版と知らずに高価だと思ひつつ買ひ取つた〉(『南蛮堂要録』)
池長孟は「南蛮もの」の蒐集に入れあげるきっかけを、このように記している。
神戸の山の手に蒐集の舞台ともいうべきスパニッシュ・ミッション様式の華麗な「紅塵荘」を構築したのも、そのような歴史が伝えてきた異文化の誘惑に導かれた結果である。戦時に向かう剣呑な世相に背を向けるように、作家の谷崎潤一郎や宇野千代、画家の小磯良平や詩人の竹中郁といった著名な文化人をはじめ、地元神戸の著名の士を集めて開かれたこの館の華やかな舞踏会は、その池長の「南蛮道楽」のもうひとつの表現でもあった。
一九二五(大正一四)年の師走に妻の正枝を病で失ったあと、池長は三人の子を抱えて兵庫の実家を仕切る母親のしまのもとでやもめ暮らしを続けていたが、淀川富子という女性と出会うことでこの館の建築が具体化する。池長にとって「紅塵荘」は熱をあげていた「南蛮道楽」の蒐集を収容して展示する、社交の場であったが、同時に母親が差配する兵庫の実家を離れて、迎え入れた富子とともに子どもたちと暮らす、新しい家庭でもあった。
淀川富子は戦後に映画評論家として一世を風靡した淀川長治の姉で、まだ二十歳を少し過ぎたばかりの娘であったが、芸者あがりでモダンな喫茶店を地元で経営するかたわら、神戸の社交界ではいつも話題になるような女性だった。派手好みで奇矯な性格は、孟の期待する役どころに応えるのに必ずしも相応しくなかったのかもしれない。それでも孟は富子を後添えに選び、道楽を尽くして完成させた「紅塵荘」の女主人として迎えたのである。一九二七(昭和二)年に伏見宮夫妻を招いた新築披露の招宴が盛大に開かれ、「紅塵荘」は関西の社交の舞台として知られることになる。だがその束の間の華やぎも、奔放な富子の振る舞いによってほどなく破られる。淀川長治は自伝でこう記した。
〈新宅に三年もかけ、この豪邸の出来上がりとほとんど同時に姉のいっぽう的な喧嘩別れというあわただしい勝手きままの別れがやってきた。三人の子供は姉になつき姉のいうがままの豪邸であったのに、姉はこの屋敷がいんきで暗いと怒り自殺未遂事件までおっぱじめ、池長氏にさんざんめいわくをかけて二人は別れたのである〉(『淀川長治自伝』)
「紅塵荘」という「南蛮の館」の女主人として、富子が振る舞う時間は短かった。孟の子どもと老舗の跡取りの家庭を引き受けるには、あまりにも若すぎたことに加えて、奔放で埒のない行動的な性格が「南蛮道楽」一筋に歩む孟との行き違うことは予想されたことであった。それでも離別した後まで、富子が新たに生田筋に開いた輸入骨董店の「ラール・エヴァンタイユ」への支援を、孟は惜しまなかったという。
〈姉はローランサン、池長氏は南蛮美術と、趣味がことごとくちがい、姉はパーティ好き、池長氏は教育家でスポーツもゴルフよりも剣道、姉はゴルフと車。車は二台持っていた。けっきょく別れたが池長氏はこれはひとときの妻の気まぐれ、再び戻るときめて巨額のいまなら何十億というべらぼうな別れ金を姉に与え、姉はこれで商売をしようと外国美術品店を思いつく〉(同)
富子という若い女性とこのような派手な悶着の挙句に別れた池長は、莫寂をかみしめながらこの館を飾るにふさわしい南蛮美術品の蒐集に没頭してゆくのである。
生涯で五千点以上に上る南蛮美術を蒐集した孟は、日米開戦前夜の一九四〇(昭和一五)年、手狭になった紅塵荘に替えて近くに「池長美術館」を建設してここを自らの蒐集を展示する場とした。軍靴の足音が高まる世相を低くみて、「南蛮狂い」は高じた。
戦後になってこれらの蒐集が神戸市立博物館に寄託された折、刊行された「南蛮美術総目録」に孟はこう記している。
〈バカげた戦争を始めた。美術館など無用の長物だ。そんな金があるなら飛行機の一台でも寄付しろという。わけの分らぬ人達が、供出のために美術倉庫の鉄扉を持ち去ろうとした。空襲の恐怖は日々に深刻だ。ようやく災禍を免れて終戦、最後は勝つ筈だったのに、敵さんが勝った。やれやれそれでも戦争はすんだと胸撫で下ろすし下から、掠奪されないかとの不安も湧く。やがて進駐軍が本館を接収し、将校クラブにした。倉庫から美術品をほおり出し、本館付属の住宅からは幾度か私ども家族四世帯をほうりだそうとした〉
キリシタンへの禁教と殉教という歴史がよびおこす、悲劇性に彩られた南蛮美術の美に引き込まれた孟の蒐集の出発点はもちろん、豊かな資産を抱えた一人の好事家の「道楽」であった。ところがそれはやがて、戦時体制へ向かう世相への違和感とともに「美しいもの」を蔑にしてゆく、武断の時代への異議申し立てになっていった。そしてエキゾチックの魅力に取りつかれた孟の蒐集は戦火をくぐり、敗戦と占領を生き延びた。
「池長コレクション」として集められた「南蛮美術」には、池長の手元を離れたのちも歴史的な資料として知られ、今日文化財として高く評価されているものが多い。
「聖フランシスコ・ザビエル像」(一七世紀前半、神戸市立博物館蔵)はキリスト教の布教と禁教、そして迫害という激しい歴史の変転を生きた、日本史のなかのザビエル像を作ったという点で重要な作品である。狩野派を示す壷印から作者はキリシタン絵師、ペドロ狩野といわれ、イエズス会を示す「IHS」の文字とともに、イエスの最初の弟子であるペテロが漁夫であったことに由来する「漁夫環人」の署名は、当時のローマ法王庁の公文書に使われた様式に従ったものとみられている。大阪・高槻のキリシタンを祖先とする旧家から見つかったというこの作品は、当時の美術界の最大のエコールであった狩野派の周辺にも、キリシタン信仰が根強く及んでいたことを示している。
〈沈める船 沈める船/舳を海底に横たへて/折れたる帆柱は砂に埋もれ/艪は巌にくひこんで/天草灘の底深く/永久に沈める南蛮船
羅針盤は何をさすか/海図の皮は水にゆらるるとも/船は動かず/舷側にとりつけられたる/大砲は錆びて朽ちゆく〉
蒐集品の図録として一九三三(昭和八)年に刊行した「邦彩蛮華大宝鑑」のなかで、池長はこんな詩を残している。鎖国体制の下、唯一の西洋への窓口となった長崎の出島などで御用絵師が描いた「長崎絵」の代表作といわれる、蒐集品の「阿蘭陀入船図」に寄せた一種の画賛であろう。遠路はるばるやってきたオランダ船のにぎわいと、人々の衣装や言葉が発する文明と異文化の香りに誘われ、その運命へ導かれるように「南蛮」と「紅毛」の美術に生涯を預けた、奇矯な蒐集家の秘めやかな情念を垣間見るようである。
〈よくもまあこれだけ集めたものだ。厖大とはこれを言うのだ。汗牛充棟どころではない。あるいは集まったという方が正しいかも知れない。これは神慮であって人間わざ業ではない。しかも、私一人の手で集めたのだ。思う存分、気に入れば買い、入らねばはねる。完全なワンマンだ。役所仕事や民主とやらで多人数相談に日を暮したら、とても出来る芸当ではない。一徹な私は先祖譲りの家や土地を皆売り飛ばし、借金をしとうして南蛮美術を買った。おはら庄助さんは朝寝朝酒朝風呂が大好きで、それで身上をつぶしたらしいが、私は又南蛮紅毛絵に惚れ込んでエキゾチックに浮き身をやつし、それで身代限りをした。その頃私を馬鹿扱いし、親からの財産を後生大事にした連中は、終戦後になって、私に先見の明があったという。変な具合だ〉(『神戸市立博物館収蔵南蛮美術総目録』序文)
このように振り返る孟の蒐集の頂点ともいうべき南蛮絵画が、現在神戸市立博物館に所蔵されている『泰西王侯騎馬図屏風』(四曲一隻)である。
安土桃山時代に渡来したイエズス会の西洋人宣教師のもとで、洋風画の技術を身に付けたセミナリオ(神学校)の日本人が描いた南蛮美術の傑作いわれる。華やかな軍装に身を固めた中世の騎士たちが、馬上で剣を振り上げて干戈をまじえる姿を、鮮やかな金箔の背景のもとに描き出した四曲の画面は、ほとんど同時代の西洋絵画と見紛う、躍動感あふれる構図の大作である。画面には西欧の同時代のマニエリスムの影響も指摘される。
渡来した西洋人宣教師の下で、西洋美術の手法を学んだ日本人の画工が描く初期洋風画と呼ばれる絵画は、美術史のなかでも慶長年間のごく短い期間にだけしかあらわれない特異な作品ジャンルで、作品もきわめて少ない。ザビエルら西洋人宣教師によって一時は少なくない諸藩の大名にも浸透したキリスト教は、一五八七(天正一五)年の豊臣秀吉によるバテレン追放令で一転して禁教とされて鎖国体制を迎えるが、この間の歴史の雲間から差し込んだ束の間の陽光のように、初めての西洋画がこの国に花開いたのである。
孟がこの作品を入手したのは、一九三二(昭和七)年の初夏であった。「長崎絵」や南蛮屏風の蒐集に熱が入っていたころで、その後数奇な来歴とともに世間に知られることになる名品を取り持ったのは、旧知であった東京の古美術研究家の高見澤忠雄である。
いま神戸市立博物館に所蔵されている、絢爛豪華なこの屏風絵が発掘されてから池長の手に渡るまでの数奇な経緯については、その間を取り持った高見澤の娘のたか子が著書の『金箔の港』のなかで詳細に追跡して記している。
発端は一九二五(大正一四)年のことである。会津松平家に伝えられてきた『泰西王侯騎馬図屏風』とよく似た洋風画の屏風絵が、山口県萩の旧家にあるという話を友人が高見澤のもとへ持ってきた。尊王攘夷運動の志士、前原一誠の末裔の一族だという。
友人が示したその屏風絵のぼやけた写真を手にして、高見澤は会津松平家に伝わってきた四曲一双の図屏風を思い起こし、即座に萩の持ち主を訪ねた。
出迎えた前原一誠の息子の未亡人とその親族が、箪笥から「家宝にしてきた」という割には無造作に巻かれた紙本の絵画を座敷に広げた。色鮮やかな軍装を風になびかせて馬上で剣を振う西洋の騎士たちの像が、金箔の背景のもとに浮かび上がる。かつて見た会津松平家の『泰西王侯騎馬図屏風』の対をなした作品であることは、疑いをいれない。
ただし、描かれた騎士たちの図像は会津松平家所蔵の作品と対照的である。こちらが騎乗した騎士が武器をかざしてわたりあう戦闘の躍動を描いているのと比べれば、会津松平家所蔵の画面は静的で、騎士たちが儀礼や演習に向かう一場面のようにも窺える。
もともと八曲の画面だった屏風絵は会津鶴ヶ城に松平家が所蔵してきたが、何らかの理由で「動」と「静」の四曲ずつに分たれた。戦後まで松平家に所蔵されていまはサントリー美術館にある「静」の四曲に比べてみても、萩の前原家が所蔵してきたこの「動」の四曲のダイナミックな構図とモデルの動きには見るものを圧倒する迫力がある。
ところが萩の前原家へ通って秘蔵の屏風絵と対面した高見澤が作品の売却を打診しても、前原一族の反応はけんもほろろであった。池長がその作品の存在を知るようになったのは、それから七年以上も経過した一九三二(昭和七)年である。送られてきた図録が縁で「騎馬図屏風」の存在を知った池長は、この「南蛮美術の花」というべき大作の買い取りを熱心に働きかけた。高見澤が当初提示していた五千円(公務員の初任給が七十五円の時代であるから現在の一千数百万円に相当する)の五倍にあたる二万五千円(同じく六千五百万円相当)を池長が示したことで前原の遺族は売却を受け入れ、ようやく幻の屏風絵は南蛮狂いで鳴り響いていた「紅塵荘主人」の手に落ちたのである。
それにしても、この図屏風はその制作の成り立ちから所蔵の来歴にいたるまで、多くに謎に包まれた作品である。萩の前原家を最初に訪れた時、前原の一族を代表して縁者の老人は「これは戊辰戦争で会津落城の折、長州側の先鋒だった前原が藩主松平容保の恩情を得るところとなり、屏風から自ら切り取って記念に寄贈されたものと伝えられてきた」と説明した。もともとはキリシタン大名で、織田信長に寵愛された蒲生氏鄕が近江日野城を飾る障壁画として描かせた作品といわれ、それが転封で会津の鶴ヶ城に持ち込まれたものが受け継がれてきたというのである。池長もこの来歴を疑わなかったようである。戦後になってから記した『南蛮美術総目録』にはこう記している。
「かくの如き秘宝が、いかにして会津若松の僻陲の城内に、長き歳月の間埋もれいたるかは、不思議に似て、不思議に非ず。そは江州日野の城主蒲生氏鄕が、城内の障壁画として朝夕愛着措かざりしを、会津への転封の砌携行せしものと推断すべきものなればなり」
ところがその後、その原画とされる作品の同定がすすめられた結果、当初の「蒲生氏鄕の所蔵」説は揺らいできた。
『泰西王侯騎馬図屏風』は、後年の図像学的な考証から中世の西欧カトリック国家とイスラム国家の皇帝たちがたたかう姿を描いたものと考えられている。「静」のモデルとして推定されているのはクラウディス帝とイギリス王の図の折衷とアンリ4世、アビシニア王、そしてペルシア王、「動」の四曲は神聖ローマ帝国皇帝のルドルフ2世、トルコ王、モスクワ大公、タタール大汗とみられる。
これらは当初、16世紀末のフランドルの画家のストラダヌスが描いた『古代ローマ皇帝図集』を原画として、岩絵具や金箔など固有の画材を使って日本人の画工が描いたものと考えられてきた。しかしその後の地理学者らの考証で、一六〇七年、一六一八年、一六一九年にアムステルダムで刊行されたウィレム・ブラウの銅板世界図をもとにした「王侯騎馬図」にきわめて似た図像であることが指摘され、蒲生氏鄕の没年が一五九五(慶長元)年であることから、制作年代の引き下げが迫られることとなった。
現在では氏鄕の嫡子でのちに関ヶ原の戦功で会津松平家に入り、徳川家と婚姻関係を結んでゆく蒲生秀行が、イエズス会から受けとった贈り物、という説が有力とされる。
同じように、この作品を描いた画工がどういう人物であったのかも大きな謎であった。イエズス会が布教のために九州や畿内の各地に設けたセミナリオ(神学校)では聖書や聖歌などの音楽、ラテン語などの言語教育などに加えて、絵画教育が施されていた。
イエズス会の巡察使、ヴァリニャーノが九州各地に設けたセミナリオで美術教育が本格化したのは、一五八三(天正一一)年に来日したジョヴァンニ・ニッコロが来日してからといわれる。一五九三(天正二一)年に長崎からローマ法王庁に宛てたイエズス会年報の報告は、長崎の島原のセミナリオで西洋画を学ぶ日本人の画工を活写している。
初めて日本から長い困難な海路を乗り越えて欧州に渡り、ローマ法王庁で法王との接見を果たした天正少年遣欧使節の四人の少年が八年の歳月を経て帰国した二年後で、すでに秀吉のキリスト教への禁令が出ていたが、セミナリオの活動は続いていたのであろう。
〈彼らのうちには日本の使節がローマから持ってきた立派な絵をそっくりそのまま写す者がおり、色も形も原画さながらで、神父や修道士たちもどちらがローマから持ってきた絵で、どちらが日本人の絵か見分けがつかないほどです〉(片岡千鶴子訳)
ここでは画工として水彩画に八人、油彩画に八人、銅版画に五人が学んでいる、と報告されている。ニッコロもその流れを継ぐ画家であったが、欧州ではバロック期へ移り変わる頃に流行したマニエリスムの影響を強く受けた美術が隆盛を極めていた。
『泰西王侯騎馬図屏風』の作者がそうであったように、セミナリオでは欧州から遥々持ち運ばれた原画を手本として、若い日本人の画工が岩絵具に膠を混ぜた顔料で描いた画面を胡麻油などでコーティングするなどして、限りなく油彩画に近い作品が描かれた。作品の多くは、布教をすすめるイエズス会が大名ら有力者に対する贈り物としたとみられる。
セミナリオの画工たちのうちの何人かは、その名前を幽かにとどめている。イエズス会報告に名前が残されているレオナルド木村は修道士となり、やがて一六一六(慶長二一)年に長崎・西坂で二十六聖人とともに福者として殉教した。『泰西王侯騎馬図屏風』の作者とも言い伝えられてきた山田右衛門作は、島原の乱で原城に立てこもって捕えられたのちに幕府側への内通者となり、のちに江戸へ出てキリシタン目明しとなったと伝えられる。
池長は織田信長に心酔する蒐集家であった。
生涯にわたる膨大な南蛮美術の蒐集は、遠いその時代から響いてくる刺激的で官能的な異文化の音楽を聞くことでもあったろう。
「南蛮趣味」を恣にして虜となった織田信長はもちろん、のちにキリシタン禁令で信者への弾圧と迫害に踏み切る豊臣秀吉も、南蛮文化が放つ魅力に逆らい難かった。
『泰西王侯騎馬図屏風』が描かれた同時代、セミナリオの周辺から「天正遣欧少年使節」の四人の少年が日本人キリシタンとして初めて欧州の地を踏んでローマ教皇に接見し、八年の長い旅を終えてから帰ったのは一五九一(天正一九)年の春である。
九州のキリシタン大名である大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の使節として選ばれた伊東マンショ、千千岩ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの四人の少年たちは、長崎を旅立った時には十三歳から十五歳の少年であったが、八年にわたる欧州の旅ですでに全員が二十歳を過ぎた逞しい若者になっていた。青年へ成長する最も多感な人生の時間を、この遠い異郷への旅のなかで過ごしたのであるが、それは信仰への献身と祝福がもたらす陶酔を通して、およそ予期し得なかった世界の拡張を経験する時間であったはずである。しかし、八年の歳月を経て長い海路の果てにようやく故郷たどり着こうという矢先のマカオで、彼らを凶報が待ち受けていた。
布教の拡大による侵略を恐れた秀吉が一転してバテレン追放令を発し、厳しいキリシタン弾圧を繰り広げているというのである。祖国が自分たちを裏切ろうとしている―。
疑心暗鬼のなかの帰国であった。一行は沢山の託されたものを携えていた。
例えば京都・妙法院に所蔵されている、関白豊臣秀吉にあてた「ポルトガル国インド副王の親書」は一行が帰路にインドのゴアから託されてきた。羊皮紙に金糸で縒った房が飾られ、飾り文字の文面を煌びやかな色彩の挿画が飾っている。
〈至って高貴雄偉なる関白殿/地遼遠なるが為に今に及ぶまで両国間の交際存せざりしといえども、殿下の勝利及び功業の偉大、遠方に至る迄も響く殿下の声誉芳名、日本の四方の諸侯及び諸州を殿下の版図に克服せられたる次第は、貴国各地に在る伴天連等の書簡に由りて予の知れるところ……〉
一五九一(天正一九)年春、帰国した少年使節一行はこの国書を携えて聚楽第に秀吉とまみえた。このほかに副王からは▽広刃の剣二振▽鎧二領▽アラビア馬二頭と馬具▽拳銃二丁と短刀一振▽金飾の掛布二対▽天幕一張り―という贈り物が届けられた。
これらはキリシタン弾圧を緩和させたいカトリック側の必死の懐柔策であったが、秀吉は実利を伴う南蛮貿易の継続は認めたものの、キリスト教の禁教を覆す事はなかった。
五十四歳の秀吉はこの年、朝鮮出兵へ踏み切る。
四人の若者の庇護者だった大村と大友の二人のキリシタン大名は既に亡くなり、眼の前の秀吉は異教への厳しい弾圧者に変わろうとしている。
それでも関白は南蛮土産に上機嫌であった。
南蛮から持ち帰った音曲を披露して欲しい。
そんな求めが関白からあったのかもしれない。
〈四人の公子はクラヴォ、アルパ、ラウデ、ラベキーニャ(小型のヴァイオリン)を合奏し始めた。彼等はイタリアやポルトガルで十分習っていたので極めて巧みに、優雅に、かつ軽快に演奏した。(秀吉は)彼らに歌うように命じ、好奇心をもって注意深く聞いた。……彼は同じ楽器の演奏と歌を続けるよう三回も命じた〉(ルイス・フロイス『日本史』)
どのような旋律が奏でられたのか。
「そのころ欧州で流行していた、ジョスカン・デ・プレのシャンソン、『千千の悲しみ』ではなかったのか」
こう指摘するのは音楽史学者の皆川達夫氏である。
「スペイン王のカルロス一世がこの曲を愛して、“カンシオン・デル・エンペダロール”(皇帝の歌)のタイトルで声楽、オルガン、ヴィオール(ヴァイオリン)などで頻繁に演奏される流行の曲だった。この時代にスペイン、ポルトガルなどに長く旅をしながら音楽を身に付けた少年使節が御前で演奏する曲は、これを措いて考えにくい」
作家の三浦哲郎氏は遣欧少年使節を主題にした長編小説『少年讃歌』のなかで、この曲の歌詞を再現している。
〈そなたと別れて嘆きは深し/つれなき我の罪をば許せ/悲しみ痛みのいやまさるゆえ/短かるべしつたなきいのち〉
妻を亡くして寂漠を心に抱えながら、南蛮美術の蒐集の魔となっていった池長が遠く耳を澄ませて聞こうとしたのも、彼方から聞こえるこのような旋律ではなかったのか。
=この項終わり
(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)