連載 ジャパネスク●JAPANESQUE かたちで読む〈日本〉 9
〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。
9 〈欺瞞〉について
三島由紀夫と二つの「鹿鳴館」
〈このあいだ大山夫人と海軍士官の訪問は受けたけれど、それはただ西郷海相から頼まれて三月三日の夜会に夫人連をかり出す役目を仰せつかったからという挨拶のためで、井上夫人は他の夫人たちのように強いてかり出される立場にはない。/そもそもその夜会そのものが夫の井上の要請によるものだが、それというのも井上は、旧臘外務大臣という名になったが、それ以前明治十二年から継続して外務卿の地位にあり、鹿鳴館を作ったのも彼といっていいくらいだからだ。/それに、武子夫人自身が、大山捨松夫人を除けば、大官夫人中、一、二を争うハイカラであった〉
山田風太郎は鹿鳴館の夜会をめぐる明治の元勲の夫人たちの哀歓を描いた『エドの舞踏会』のなかで、その「プロデューサー」ともいうべき外務卿、井上馨の妻、武子をこのように紹介したあと、夜会の賓客であったフランスの外交官、ピエール・ロティの偽りのないオマージュを重ねて物語に華々しく登場させている。
〈ついさっき、汽車の中で、私はこの夫人の身の上話を人々から聞いたのである。彼女はもとゲイシャだったが、大臣に出世する途中の一外交官に見そめられ、落籍されてその妻となり、いまでは外国公使たちの社交界で、エドの花形たる役割をになっているのだそうだ。/……いま、肩のあたりまで手袋をはめ、非のうちどころもなく髪をゆいあげた、秀でた聡明そうな顔だちをしたひとを前にして、私はびっくりして立ちどまる〉
欧化政策を急ぐ明治政府の対外演出の舞台として東京・日比谷に建てられたこの社交場で繰り広げられる「鹿鳴館外交」は、大礼服や燕尾服姿の日本の大官貴顕と身に付かないローブ・デコルテで着飾ったその妻や娘が、外国の要人相手にぎこちない西洋舞踏のステップを踏む姿がしばしば諷刺画の素材となった。一方で国粋主義者たちは「嬌奢と頽廃の売国外交」としてこの館で開く饗宴をテロや焼き討ちの標的にしようと画策した。
その舞踏会の主人公が外務卿の井上馨と妻の武子である。
日比谷の旧薩摩藩装束屋敷の跡地に鹿鳴館が竣工したのは、維新のざわめきがようやくおさまり、帝都が形をなしはじめた一八七三(明治一六)年の十一月である。
敷地は八千五百三十二坪、総建坪は四百六十七坪の二階建てで、お雇い外国人だった英国の建築家、ジョサイア・コンドルが設計した。赤煉瓦を使ったフランスのルネサンス風の外観の本館は、屋根裏部屋を持つ二段に屈折したマンサード屋根を挟んで左右にベランダが広がり、その柱頭にはインド・イスラム風の椰子の葉の装飾が施された。
談話室、大食堂、応接室、事務室、新聞室などがある一階から折れ曲がった中央の大階段を上ると正面に舞踏会が行われる二階の大広間がある。貴賓室や婦人の化粧室に賓客の宿泊室も六室あった。その頃は内山下町と呼ばれ、練兵場として使われていた日比谷の原野の暗がりに忽然と現れた西洋館は眩い輝きを放ったが、その出来栄えは井上馨を十分満足させるものではない。
欧州諸国の財政と経済を視察するため英国など欧米各国へ三年にわたって滞在した井上は、一八七八(明治一一)年の七月に帰国すると即座に工部卿の辞令を受けた。その一年後に外務卿として条約改正交渉の矢面に立つことになる。
〈抑我輩ノ志ハ一ニ各国人民ノ文明教化ヲ伝習スルニ存リ、十年乃至十五年コノカタ現ニ其証拠ヲ立テタルニアラズヤ、且又我輩ノ願イハ泰西ノ各大国ト同等ノ権利ヲ有シ、同等ノ地位ヲ占メントスルカラニアリ〉
このころ欧州の列強との「同等の権利」を求める外交の本懐をこのように述べた井上には、外遊で見たロンドンのバッキンガムやパリのルーブル宮、そして完成したばかりのオペラ座の壮麗な姿を瞼に焼き付けていたはずである。そのためのなりふり構わぬ欧化主義の舞台としてにわかに構想されたのが鹿鳴館であったが、西南戦争後の財政の逼迫の下で「外国人接待所」としてコンドルが設計したこの建築は多くの矛盾を抱えていた。
皮肉屋のピエール・ロティが「鹿鳴館は美しいものではない。ヨーロッパ風の建築で、出来たてで、真っ白で、真新しくて、なんとなくそれはフランスのどこかの温泉場のカジノに似ている」と批評しているように、「安普請」への酷評は外国人に少なくなかった。コンドルにとって不運だったのは、ベランダの柱頭に施された椰子の葉の装飾に見るような、折衷的なオリエンタリズムが不評を買ったことである。
コンドルにも言い分はある。岩倉使節団の副使として欧州を歴訪していた伊藤博文が工部大学校の開校へ向けて造家学(建築)の教員を招聘するにあたり、白羽の矢を立てたのが英国建築界で注目されていた、まだ二十五歳のジョサイアだった。
破格の待遇の来日であったが、政府から依頼を受けて帝室博物館や開拓使物産売捌所などの公共建築を手がけるなかで、鹿鳴館を西欧建築のコピーとすることには少なくない抵抗があった。ジャポニスム華やかな欧州から憧れをこめて眺めてきた遥か東洋の島国に身を置いて実際に設計にかかろうという時に、日本という固有の風土や文化を意匠のなかにとどめたいと願うのは建築家として当然であろう。それが何故かインド・イスラム風の装飾という、西洋と日本の狭間に広がる異質な「東洋」であったとしても―。
かくして「日本」ではない、しかしまた「西洋」でも決してない〈鹿鳴館〉という不可思議な空間で、その幕開けの夜会が開かれたのは一八八三(明治十六)年十一月二十八日である。外務卿、井上馨と妻、武子の連名で、皇族と各国公使や外交官、高級官僚、各界名士とその妻や娘らにあてて千二百人もの招待状が送られ、五百人ほどが出席した。横浜居留地に住む外国人の送迎のために、新橋と横浜を結ぶ特別列車が運行された。
旧薩摩藩邸時代の黒門に国旗が掲げられた鹿鳴館の正面は電飾が輝いている。池をめぐらせた前庭に次々と車馬が到着すると、着飾った貴顕淑女が続々と降り立った。舞踏室からは軍楽隊が奏でる典雅な旋律がもう響いている。宴はようやく始まろうとしている。
「三条公爵とご令室治子さまであらせられる」
「有栖川宮の御台薫子妃殿下であらせられる」
次々と到着する参会者の名前が読み上げられるなかで、大階段の前で夫の馨とともに到着した賓客を迎えているのが、見事にデコルテを着こなした武子である。
この日、ピエール・ロティは横浜港に停泊しているフランス艦トリオンファント号に届いた菊の紋章入りの招待状を持って、横浜から特別仕立ての汽車に乗り、新橋駅に降り立った。初めてみる東京の街は煉瓦造りの高楼が並び、電線を張り巡らせた街路をガス灯が煌煌と照らしている。ここはロンドンか、ニューヨークか、メルボルンかと見紛う夜の街を人力車で走り抜けて、ようやく鹿鳴館に到着する。
階段を上ったサロンで武子の挨拶を受けたロティはこう記している。
〈とりどりの真珠をちりばめた硬い縫取りでおおわれている、ほっそりとした鞘形の胴着(コルサージュ)。要するにパリに出しても通用するような服装で、それがこの驚嘆すべき玉の輿の女に実に器用に着こなされている。―で、わたしは彼女を真面目に取って、礼儀正しい挨拶をする―。彼女の挨拶もまた礼儀正しく、とりわけ慇懃である。そしてわたしがすっかり圧倒されたと感じたほどの大そうすぐれた性質の気軽さをもって、アメリカ婦人のように、私に手を差しのべる〉
やがて舞踏会が始まった。燕尾服とデコルテの日本人が西洋人の賓客を相手にポルカを、ワルツを、カドリールを、マズルカを踊る。欧米で暮らして舞踏を身につけてきた武子のほか、岩倉使節団に加わって米国で留学し、西洋の社交になじんで帰国した大山巌の妻の捨松や津田梅子らは難なく外国人相手にステップを踏んだ。しかし、にわか仕立てで練習をして臨んだ他の夫人や令嬢たちのダンスは覚束ない。まして白襟五つ紋で和装の婦人連は、異人たちに混じった男女の華やかな円舞を遠巻きにして見物するばかりである。
ロティは、その印象も忘れずに書きとめている。
〈彼女たちはかなり正確に踊る、パリ風の服を着たわがニッポンヌ(日本娘)たちは。しかしそれは教え込まれたもので、少しも個性的な自発性がなく、ただ自動人形のように踊るだけだという感じがする。もしひょっとして奏楽が消えでもしたら、彼女たちを制止して、もう一度最初から出直さねばならない。彼女たちだけを放っておいては、音楽にはずれたままいつまでもおかまいなしに踊りつづけることだろう〉
武子が夫に従って横浜から米国船アラスカ号に乗ったのは一八七六(明治九)年のことである。元老院議官の馨が四十一歳、武子が二十九歳、十二歳の娘の末子を伴った。汚職を問われた尾去沢事件などで毀誉褒貶のさなかにあった馨が、同じ長州閥の木戸孝允の助力で「理財学研究」という目的を掲げて、国家の設計を学ぶための欧米への旅であった。
新田義貞に連なる武家の娘であった武子は御一新で零落して柳橋の芸者になり、中井桜洲という一風変わった薩摩侍から身請けされながら、築地にあった大隈重信の梁山泊に出入りしていた馨の強引な籠絡にあって結ばれた。姦通であったが、中井は恬淡としてこれを受け入れたばかりか、馨に一生添い遂げることを申し渡した上で、その博識によって中国古典の『詩経』からとった「鹿鳴館」の命名に一役買った。
奔馬のように欧化主義をひた走ろうとする夫の欧米遊学に従って、武子は昨日までの丸髷で褄をとる暮らしをあっさり捨てて、西洋の言葉と作法や社交の流儀を苦もなく身につけていった。ロンドンやパリで調達したドレスや宝飾品もすっかり馴染んで、来客に西洋料理を供して接待する日々は帰国してのち、外務卿の夫とともに取り仕切る鹿鳴館の女主人に相応しい役どころとして、おのずから生きたのである。
同じ時期に明治政府が米欧に派遣した岩倉使節団の五人の女性の一人として米国のヴァッサー大学に留学した会津藩家老の娘、大山捨松のように、帰国したのちに伯爵の大山巌に嫁ぎ、語学と教養を生かして「鹿鳴館の花」として活躍した女性もいた。
戊辰戦争に敗れた家老の娘として、賊軍の名に甘んじることなく十二歳で米国へ留学した捨松は、敗者の末裔の辛酸をなめながら新天地で西洋の新しい生活と知識を貪欲に吸収した。語学や教養はもとより、近代女性としての自立した生き方を身につけて二十三歳で帰国したが、婚期を逸していたことから十八歳年上の陸軍卿、大山の後妻に入った。武子とともに「猿真似」と揶揄される鹿鳴館の夜会へ大官夫人たちを導き、舞踏を教えるという立場はその心のなかででどのように受け止められていたのだろうか。まことに欧化という時代の嵐は、このような当時の選良女性たちの生き方をも大きく揺るがせていた。
とはいえ、日本の近代史に鮮やかに記憶をとどめる「鹿鳴館時代」は一八七七(明治二〇)年九月、条約改正交渉の決裂とその中心にあったプロデューサーたる井上の外務大臣辞職によって幕を閉じる。
〈これに処するの道惟だ我が帝国及び人民を化して、恰も欧洲諸国の如く、恰も欧洲人民の如くあらしむるに在るのみ、即ちこれを切言すれば、欧洲的一新帝国を東洋の表に造出するにあるのみ〉
そのころ井上は閣議の席で、条約改正を目指してこのような説明をしている。まさしく鹿鳴館は「恰も欧洲人民の如くあらしむる」ための舞台であったが、井上がすすめてきた条約改正案が、領事裁判権や関税権など治外法権に等しい不平等な条項をそのままにした内容であることが明るみに出ると、国民世論は憤った。新聞や民権派はもとより、政府部内やフランス人法律顧問のボアソナードからも批判の声が上がって条約改正は無期延期の事態となり、ほどなく井上は外務大臣の職を辞した。
英国人建築家、ジョサイア・コンドルによって設計され、開場してからわずか四年の鹿鳴館はまことに束の間の「劇場」であった。条約改正の頓挫で伊藤博文内閣が崩壊し、これに代わった黒田清隆内閣のもとで新たに外務大臣となった大隈重信夫妻が翌年秋、恒例の天長節夜会を鹿鳴館で催したが、その後華族会館に身売りして役割を終えた。
「鹿鳴館の時代」の終焉を象徴するのは一八七九(明治二二)年二月十一日、黒田内閣のもとで帝国憲法が発布されるその日、英語公用語化論や積極的混血政策を論じて井上と並ぶ欧化主義の急先鋒と見られていた文相、森有礼が永田町の総理官邸の階段で国粋主義者のテロリストにより暗殺されたことであろう。
〈終戦後の占領時代は、ちょっと鹿鳴館時代に似ていた。堀田善衛氏の小説には、GHQと関係のあった貴婦人たちが登場するが、もっとも現代のほうは、階級の没落も伴って卑しげであって、鹿鳴館時代のように、外人に阿諛を呈しながらも、一方新興国家のエネルギーと、古い封建的矜持をふたつながらそなえていたのとは、比べものにならない〉
鹿鳴館から井上馨と武子が退場してちょうど八十年の歳月を経た一九五七(昭和三二)年、作家の三島由紀夫は戯曲『鹿鳴館』を書き、自らこのように背景を解説している。
もちろんあの四年間の「束の間の劇場」を舞台に、井上夫妻をモデルにした主人公を通して欧化と国粋の間に揺れる群像を描いた作品であるが、作者が企図したのはこの開化期の明治の物語をまさしく戦後の占領下の日本への暗喩として蘇らせることであった。
日本が敗戦による焼尽から立ち上がって復活と繁栄の道を歩む「戦後」という同時代へのアンビバレンス(相反感情)を、奇想に富んだ主題と華麗な文飾で描いた夥しい三島の作品のなかでも、とりわけこの戯曲では作家が戦後という時代へ重ねた反語的な問いが深い寓意となって浮き彫りにされる。戯曲『鹿鳴館』は米国の占領から脱して経済大国に変じて行く日本の戦後に寄せた作家の想念を歴史的に敷衍した物語であり、その後の人生の劇的な顛末を暗示させる、大きな伏線と読み解くことができる。
この芝居の主人公、影山悠敏伯爵と夫人の朝子が井上馨と妻の武子をモデルにしているといっても、作劇上の虚構によって実像とは異なる物語が展開する。
朝子のかつての恋人でいまは反政府派の頭目の清原永之輔が、夫の主催する鹿鳴館の夜会に自由党の残党たちを指揮して乱入するという噂があり、自分との間に生した息子の久雄がそこで夫の影山の暗殺を企てているのを押しとどめようと、朝子は秘かに清原に会って計画の中止を乞う。夫を救うためではない。息子の久雄が育んでいるいたいけな恋を成就させてやりたい、という母心からである。清原はそれを莞爾と受け止めていう。
〈あなたが御存じだ。そうして非難される。婦人とすれば無理のないことだ。こう仰言りたいおつもりでしょう。そんな危険ないやがらせが、一体何の足しになるのだと。又もし御主人の口吻を借りればこうでしょう。政府は日本の将来のために条約改正をいそいでおる。そのためには外国人たちに、条約改正に値いする文明開化の日本を見てもらわねばならん。コレラとテロリズムの日本ではなく、鹿鳴館の夜会を見てもらわねばならん。それに何ぞや白鉢巻の若者が抜身をふりかざして、又しても野蛮未開な日本を彼らに認識させるのか、と。―言い古されたことです。屈辱的な逃げ口上です〉
清原の拒絶を受けた朝子は、それまで和装を通すことで鹿鳴館の夜会への出席を拒んできた日本の女の矜持を振り棄てて、デコルテで盛装して事件の舞台となる夜会にのぞむことを決意し、それによって計画の断念を清原から取りつけた。そこで清原は再びいう。
〈何もかも薩長の藩閥政府になってからだめになったのです。かつてパークス公使の恫喝に屈していた時代に逆戻りしたのです。今鹿鳴館に招かれている外国人のうちで、誰が政府の期待するように、文明開化の日本を見直して尊敬していると思います。彼らはみんな腹の中で笑っているのです。あざ笑っておるのです。貴婦人方を芸妓同様に思い、あのダンスを猿の踊りだと見ています。政府の大官や貴婦人方のお追従笑いは条約改正どころか、かれらの軽侮の念を強めているだけだ。よろしいか、朝子さん。私は外国を廻って知っておるが、外国人は自尊心を持った人間、自尊心を持つ国民でなければ、決して尊敬しません〉
しかし、実はこの鹿鳴館への乱入計画は親子の葛藤を利用してテロルに指嗾した久雄の矛先を父親の清原に振り向けさせ、政敵を抹殺しようという、老獪な夫の影山が仕組んだ陰謀であることが、次第に明らかになってゆく。そして天長節を祝う舞踏会が酣となったころ、一発の銃声が鹿鳴館に響きわたって舞台は暗転する―。
〈政治の要諦はこうだ。いいかね。政治には真理というものはない。真理がないということを政治は知っておる。だから政治は真理の模造品を作らねばならんのだ〉
朝子が清原と結んだ愛情への嫉妬を反転させて、政敵へのテロルを仕組んだ影山はこのように嘯くのである。三島はこの芝居の本質をメロドラマと呼んでいる。なるほどこのよく出来たメロドラマは、しかし同時に鹿鳴館という日本の近代が経験した「束の間の悲喜劇」を通して、作家が託つ戦後という同時代への齟齬を造形したものでもある。
幕切れの近くで影山は朝子に問いかける。
〈影山 ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦々々しさを噛みしめながら、だんだん踊ってこちらへやってくる。鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな。
朝子 一寸の我慢でございますね。いつわりの微笑も、いつわりの夜会も、そんなに永つづきはいたしません。
影山 隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を。
朝子 世界にもこんないつわりのワルツはありますまい。
影山 だが私は一生こいつを踊りつづけるつもりだよ。
朝子 それでこそ殿様ですわ。それでこそあなたですわ〉
劇団文学座の求めによって戯曲『鹿鳴館』は一九五六(昭和三一)年に発表されたが、その五年ほど前の一九五一年暮れから約六カ月にわたり、三島は初めて日本を離れて欧米への旅に出ている。新聞社の委嘱とはいっても、この時代にまだ二十七歳の青年作家が横浜からプレジデント・ウィルソン号に乗って太平洋を渡り、北米から南米、欧州各地を巡る長い旅が特別の意味を持っていたことはいうまでもない。
けれどもそれ以上に、この旅は三島にとって初めて「西洋」と直接出会い、文学などの表象を通して馴染んできたその文化の生身の肌に触れることを通して、鏡に映し出されたわが身と戦後の「日本」に向き合う、希有の経験であった。
のちに『アポロの杯』としてまとめられるこの旅行記は、その後の作家の運命を暗示するような若い精神の生き生きとした遍歴を浮き彫りにしている。
〈身をかがめて不味い味噌汁を啜っていると、私は身をかがめて日本のうす汚れた陋習を犬のように啜っている自分を感じた。こういう陋習のかずかずには、日本にいるあいだ、私自身可成颯爽とした反抗を試みていたつもりであったが、桑港に来て、(幸い日本人たちの目にとまらない場所ではあるが)、私はその陋習という存在に復讐され、刑罰を課せられているのである〉
途上のハワイで出会った移民女性で、ロサンゼルスでホテルを経営する成功者の日系二世が、真珠湾攻撃の折に「なぜ日本軍は米国本土に攻めのぼってこないのか」と訝り、その時自分は日本軍の砲弾で木っ端みじんになってもいいと思ったと述懐するのを、三島は冒頭に記している。祖国の「戦後」という現実を初めて外側から見たのである。
眷恋の地であったギリシャと愛着するハドリアヌス帝の寵児アンティノウスとの出会いに耽溺して「今日も私はつきざる酩酊の中にいる」と三島が書いた『アポロの杯』は一見、日本の青年作家が初めて直に接する欧米や南米の社会とその人々が形作る異文化とその伝統への手放しの讃歌である。しかし古代ギリシャ人の豊饒に寄せる酩酊の対極に、若い作家は竜安寺の石庭の均整を欠いた美を思い起こし、いまだ戦後の荒廃をひきずる祖国の日本が「近代」の病とともに失いつつあるものを見出してゆくのである。
この旅で三島は、戦後日本の現実に戻って自身の中の「西洋」とどのように向き合っていくのか、という問いを自覚した。帰国して二年後に書き下ろした小説『潮騒』がギリシャ神話を素材にした『ダフニスとクロエ』を下敷きにして、伊勢湾に浮かぶ美しい小島を舞台に素朴な漁師の若者と娘の神話的な恋を描いているのは、そうした文脈をたどることによってより深い理解が可能になろう。
三島は一九五九(昭和三四)年、東京・馬込に新居を構える。東京の郊外の勤め人の住まいが建ち並ぶ閑静な住宅街に、にわかに現れたこの白亜のコロニアル風の西洋館が道行く人々の目を奪ったことは言うまでもない。中庭にあの眷恋のアポロ像を置いた「ヴィクトリア王朝風のコロニアル様式」という外観と、スパニッシュ・バロックを基調とした重厚な家具調度や美術品で装飾した室内は、戦後の高度経済成長の坂道を上りつつある日本の都市空間に異彩を放った。
三島はここに内外の友人知己や文壇関係者を集めてしばしばパーティーを開いた。盛装した招客たちは前庭で食前酒を楽しみ、吹き抜けの広い応接間でワルツやタンゴのステップを踏んだ。その芝居じみた賑わいを眺めて、人はいつしか「大森鹿鳴館」と呼んだ。
〈私は生来、明るい地中海文化が好きで、ラテン的な色彩を愛し、さらに中南米(ラテン・アメリカ)の植民地建築に心酔して、その熱帯の色彩美とメランコリーを日本に移植しようと志し、スペイン植民地風の家を建て、その中をフランス骨董やスペイン骨董で飾り立てた。/家具類は家内と二人で、足を棒にしてマドリッドの骨董屋をあさって歩き、スパニッシュ・バロックの豪宕な装飾美に熱中した。/(略)美的生活と云っても、十九世紀のデカダンのやうな、教養と官能に疲れた憂欝で病的な美的生活は、私はまっぴら御免である〉
この家を建てるにあたって三島が「ヴィクトリア王朝のコロニアル様式」という一風変わった、屈折した趣味を持ちだしたのに対し、設計者の鉾之原捷夫が「よく西部劇に出て来る成り上がり者のコールマンひげを生やした金持ちの悪者が住んでいるアレですか」と返すと、施主の作家は得たりとばかりに「ええ、悪者の家がいいね」と応じた。
吹き抜けの高い天井を持つ部屋の真っ白い壁面を、金色の額縁で飾られたバロック風の聖画が飾り、やはり金色の唐草が施された大理石の花台の上の金色の装飾時計、そして猫足のカウチなどの家具調度が互いに干渉し合いながら、この館全体の緊張を高める―。
こうした白亜の「大森鹿鳴館」の空間はもちろん三島の趣味が生み出したものであったが、同時にそれは歴史や伝統を見失いつつ経済的な大国への道を歩む日本の「戦後」へ向けて、この作家が仕組んだ大いなる挑発でもあったに違いない。
「ヴィクトリア王朝のコロニアル様式」とは本来大英帝国の植民地支配の様式だが、三島が自邸に造形したのは、クレオールのような故郷喪失者が見失った伝統文化へ寄せる郷愁的な憧れであった。その屈折を映した建築様式と内部の装飾はそれ自体が「祖国」に対するイロニックな批評であった。戯曲『鹿鳴館』に重ねて自ら構築した私的な「鹿鳴館」を通して、三島は戦後社会の空洞の大きさをそこに見出そうとしたのであろう。
三島はその「ヴィクトリア朝のコロニアル様式」という住まいはもちろん、食卓ではビーフステーキを何より好み、人と交わる場では常にスーツとネクタイで正装することを自らに課すという、徹底した西洋風のライフスタイルを身上とした。この作家にとって「西洋」とは何であったのか。
最後の長編小説『豊饒の海』の結びをなす『天人五衰』のなかで、老いた本多繁邦は養子に迎えた少年の安永透に洋食のテーブルマナーを教えながら、このようにいう。
〈「洋食の作法はくだらないことのやうだが」と本多は教へながら言った。「きちんとした作法で自然にのびのびと洋食を喰べれば、それを見ただけで人は安心するのだ。一寸ばかり育ちがいいという印象を與へるだけで、社会的信用は格段に増すし、日本で『育ちがいい』といふことは、つまり西洋風な生活を體で知ってゐるといふだけのことなんだからね。純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。これからの日本では、そのどちらも少なくなるだらう。日本といふ純粋な毒は薄まって、世界中どこの國の人の口にも合ふ嗜好品になったのだ〉
この場面は一九七〇(昭和四五)年、つまりこの作家が戦後社会を震撼させるような自裁を遂げたその年に設定されている。それにしても、大正から昭和を生きながらえた本多のこの語りは、戯曲『鹿鳴館』の終幕近くで伯爵の影山悠敏が語って聞かせる「こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くする」という台詞に何とよく似ていることであろう。
明治の開化期に洋装で着飾った日本人が外国人相手に鹿鳴館でダンスのステップを踏むことが、昭和の高度成長期に老いた弁護士が屋敷で迎えた養子に洋食のマナーを教えることとほとんど重ね合わされて、作家のなかで欺瞞する対象であった「西洋」が次第に「日本」を飲み込んでいく、戦後という時間があらわに示される。
自決の数ヶ月前、三島が新聞へ寄稿した「果たし得てゐない約束」という、よく知られた文章がある。
〈私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう〉
その日の朝、三島由紀夫は白亜の「大森鹿鳴館」の自室で目を覚まし、身なりを整えて「楯の会」の黄暗色の制服に着替えた。午前十時過ぎに若い三人の同志が中古の乗用車で迎えにあらわれると、『天人五衰』の最終回の原稿を秘書に託して家を出た。
市ヶ谷の自裁の現場に至るまでの車中で歌った任侠映画の主題歌と、切腹というその死を除けば、全く「日本的なるもの」を身近に寄せ付けない最期であった。
=この項終わり
(文中敬称略、参考・引用文献等は連載完結時に記載します)